第3章

 盛世投資銀行のオフィスは二十一階にあり、全面ガラス張りの窓の外には、街のスカイラインが一望できる。

 面接官は敏腕そうな女性だった。彼女は私の履歴書をめくりながら尋ねる。

「前の会社でも素晴らしい実績を残されていますね。なぜ、突然転職を?」

「環境を変えたかったのと、より高いステージで挑戦したかったからです。自分の能力はこんなものではないと信じていますので」

 私は淡々と、しかし堂々と答えた。

 彼女は顔を上げ、鋭い視線を私に向ける。

「うちの会社がどれほどプレッシャーのきつい環境か、理解されていますか?」

「存じています」

 彼女は履歴書を閉じ、口元を緩めた。

「北倉佳菜さん、盛世投資銀行へようこそ。オファーレターは今日中に出します。来週の月曜日から海城支社へ出向していただくことになりますが、よろしいですね?」

 私は即座に微笑んだ。

「同僚になれて光栄です」

 ビルを出ると、日差しが目に痛いほど眩しかった。

 私はスマホを取り出し、母に電話をかけた。

「もしもし、お母さん。私、海城に帰るよ」

『本当!?』

 受話器の向こうから弾んだ声が響く。

『佳菜、帰ってくるの?』

「うん、仕事も決まったし、来週には帰る」

『よかった、よかったわあ! お母さん、部屋片付けておくからね!』

 通話を切り、私は深く息を吸い込んだ。

 あとは、会社に戻って引き継ぎを済ませるだけだ。

——

 オフィスに戻ると、同僚たちは慌ただしく働いていた。

 私は私物の整理を始め、手元のプロジェクト資料を分類してファイリングしていく。

「北倉さん、この顧客データ、どこに置けばいいですか?」

 アシスタントの小林が寄ってきた。

「分類してタグ付けして、共有フォルダに入れておいて」

 私はパソコンを操作しながら答える。

「この重要顧客の進捗記録は、個別にメールで送るから。今後の対応は、このいくつかのタイミングに注意してね」

「北倉さん、もしかして……」

 小林が目を丸くする。

 私は何も説明せず、ただ笑って彼女の肩をポンと叩いた。

「またいつか、縁があったら会いましょう」

 そう言い終えた瞬間、オフィスのドアが開いた。

 井戸川勇崎が入り口に立っていた。私の机の上にある段ボール箱に視線を走らせ、眉をひそめる。

「何をしている?」

「資料の整理です」

「辞めるつもりかと思ったぞ」

 井戸川勇崎が冷ややかに鼻を鳴らすと、横にいた別のアシスタントがすかさず口を挟んだ。

「そんなまさか。北倉さんが井戸川様を置いていくはずないじゃないですか」

 井戸川勇崎の表情が少し和らいだ。『俺から離れられるわけがない』とでも言いたげな顔だ。

 彼は数秒間私をじっと見つめ、突然話題を変えた。

「昨夜、家に帰らなかったな?」

「大学時代のルームメイトが来ていたの。外で飲んでて、話が盛り上がっちゃったから彼女のホテルに泊まったわ」

「そうか」

 彼は機嫌を直し、それ以上追求してこなかった。

 その時、白石楚々がコーヒーを運んできた。井戸川勇崎を見つけるなり、声を上げる。

「勇崎さん! コーヒー淹れたんですけど、飲みますか?」

「ああ、もらうよ」

 井戸川勇崎はカップを受け取り、まるで子供をあやすような優しい声を出した。

「また腕を上げたな」

 白石楚々は頬を染め、甘えるように言う。

「当然ですぅ。これでも専門的に勉強したんですから」

 周囲の同僚たちの視線が、一斉に私に集まる。

 憐れむような目。

 私は気にも留めなかった。

 井戸川勇崎は笑って彼女の頭を撫でると、振り返って私に言った。

「昼は楚々とあの中華に行く。お前も来い」

 それは施しのような、それでいて拒絶を許さない口調だった。

——

 レストランはショッピングモールの六階にあった。内装は洗練されており、店内は多くの客で賑わっている。

 注文を終えた直後だった。

 突然、館内に火災報知器のけたたましい警報音が鳴り響いた。

 人々は瞬時にパニックに陥り、椅子が倒れる音や悲鳴が入り混じる。

「勇崎さん!」

 白石楚々が悲鳴を上げて立ち上がった。

 井戸川勇崎は反射的に手を伸ばす——。

 彼は私の方に近い位置にいた。体を少し捻れば、私の手を引くことができたはずだ。

 だが、彼の手は私を通り越し、白石楚々の手を強く握りしめた。

「怖がるな、俺について来い!」

 私は自嘲気味に笑った。

 本当に、救いようがない。

 ありもしない期待を、心のどこかで抱いていたなんて。

 彼が彼女の手を引いて出口へと駆け出していくのを、私はただ見ていた。

 とっさの本能的反応こそが、最も真実を語る選択だ。

「お客様、大変申し訳ございません!」

 レストランのマネージャーが息を切らして駆け込んできた。

「誤作動による警報でした! 火災は発生しておりません、どうか落ち着いてください!」

 騒然としていた人々が、徐々に静まり返る。

 井戸川勇崎は足を止め、自分が白石楚々の手を握りしめていることに気づき、顔に気まずさを滲ませた。

 彼は手を離し、振り返って私を見た。

「北倉佳菜……」

「何?」

 私は微笑んだ。

「どうかしましたか?」

 料理が次々と運ばれてきた。私は上機嫌で食事を楽しんだ。

 対照的に、井戸川勇崎はずっと落ち着かない様子で、何か言い訳を探しているようだった。

「お先に失礼します。会社でまだやることがあるので、お二人でどうぞ」

 箸を置き、私はバッグを持って立ち上がった。

「北倉佳菜!」

 井戸川勇崎が私を呼び止める。

 背後から白石楚々の声が聞こえた。

「勇崎さん、北倉さん怒っちゃったんですか?」

「放っておけ」

——

 人事部での退職手続きはスムーズに進んだ。

 書類へのサイン、引き継ぎ、社員証の返却。

「北倉部長、本当に寂しくなります」

 人事担当の女性社員が目を赤くしていた。

「またいつか、仕事でご一緒しましょう」

 私は笑顔でそう告げた。

 会社のビルを出ると、スマホが狂ったように振動し始めた。

 すべて井戸川勇崎からの着信だ。

 一件、二件、五件、十件……。

 私は短いメッセージを入力した。

『井戸川勇崎、私たち別れましょう』

 送信。

 やっと、家に帰れる!

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