第1章 うちの家政婦

「もっと近寄って。もっと『匂わせ』て。そう、その感じ。いいよ」

狩野姫空は扉の外に立ち尽くし、撮影現場を見つめていた。

そこには、自分の夫と――自分の親友がいた。

腰に腕を回し、肩を寄せ、体と体がぴたりと密着している。

正木稲巳の冷ややかな顔立ちに、林田守萌の艶めいた色気。絵になる二人。あまりにもお似合いだった。

手に提げた保温容器が、力の入りすぎた指先で小さく揺れる。

姫空は深く息を吸い込み、胸の奥を刺す痛みを必死に押し込めた。

「ちょっと、あんた誰? なんで撮影現場に入ってきてんの?」

スタッフの刺々しい声が飛び、室内の空気がざわつく。

「……ママ?」

ちょうどミネラルウォーターを二本抱えて歩いてきた正木司朗が、姫空を見て目を見開いた。驚きと、ほんの少しの後ろめたさ。

――司朗も、ここにいたんだ。

今朝は「同級生と遊ぶ」って言ってたのに。

けれど、すぐに腑に落ちた。

司朗は守萌に会いに行くたび、いつも嘘をつく。

物音に気づいた正木稲巳と林田守萌が、こちらへ出てきた。

守萌は微笑みを浮かべたまま言う。

「姫空、どうしてここに?」

「さっき、何してたの?」

妻として、あんなに密着していた二人に問いただすのは当然だ。

だが稲巳の端正な顔には、不快と嫌悪が浮かぶだけだった。

「守萌さん、この人は?」

スタッフが好奇心に目を光らせ、姫空を上から下まで値踏みする。

司朗が反射的に言った。

「うちの家政婦」

――ママ、外に出るなら少しは身なり整えればいいのに。

関係がバレたら、パパの顔に泥を塗るだけだ。

スタッフの視線が姫空の保温容器に落ち、次に彼女の服装へ。

ジーンズにTシャツ、ノーメイク。興味は一瞬でしぼんだ。

「家政婦? ……へえ」

姫空は小さく笑い、視線を稲巳へ向けた。

結婚して七年。彼は一度も、彼女を『妻』として公にしたことがない。

そして今、息子の口から出た言葉は――家政婦。

それでも稲巳は、何も訂正しなかった。

姫空は喉の奥を絞り出すように尋ねる。

「稲巳……私は、あなたたちの家政婦なの?」

分かっている。彼は庇わない。

それでも、聞かずにはいられなかった。

目の縁に、意地の涙が溜まっていく。

稲巳は冷えた目で、面倒くさそうに言い捨てる。

守萌が不満げに眉を寄せた。

「私たち、仕事してただけよ。いい加減、無理に騒がないでくれる?」

「相手にするな」

稲巳の薄い唇から零れたのは、情け容赦のない言葉だった。

視線すら寄越さず、背を向けて撮影現場へ戻っていく。

守萌も姫空に軽く笑みを向けると、同じように中へ入った。

「ママ、今日のママはさすがにひどいよ」

司朗が言い募る。

「守萌おばさん、雑誌の撮影だったんだ。相手のモデルのおじさんが来なくて、パパが代わりに入っただけ。なんでパパを信じないの? 僕たち、がっかりだよ」

そう言い捨て、司朗も二人の後を追った。

守萌は司朗が追いつくと、自然な仕草で手を取った。

――まるで、本当の家族みたいに。

『相手にするな』

その言葉が、姫空の頭の中で何度も反響する。

自分の愛は、結局、無価値だったのだ。

姫空は息を吸い、口元に冷たい笑みを浮かべる。

そしてゴミ箱の前に立ち、保温容器を一度見下ろし――迷いなく捨てた。

正木稲巳に七年分の愛を注いで、返ってきたのは「家政婦」という肩書き。

撮影現場を出ると、姫空はタクシーで家へ戻った。

「へえ、もう帰ってきたの?」

梅崎静の嘲る声。

姫空は目を上げ、彼女をまっすぐ見据える。

「わざとでしょ?」

――稲巳の胃が痛い、まだ何も食べてない、スープを煮て持っていけ。

あれは、見せるためだった。

梅崎静は鼻で笑った。

「そもそもあんたが稲巳を騙して、『助けたのは私』なんて言ったから結婚できたんでしょ。現実を見せてあげただけ。あんたみたいなのが、うちの息子に釣り合う? 図々しく正木家に居座って」

姫空は冷たく一瞥し、拳を握りしめたまま階段へ向かう。

――今なら分かる。

罪を着せたいなら、理由なんてどうとでも作れる。

追い出したいだけ。だから口実を用意した。

梅崎静が背中に向かって怒鳴る。

「分別があるなら自分から出ていきなさい! 追い出されて恥かく前に!」

出ていく?

姫空は、書きかけの離婚協議書へ視線を落とす。

冷えた瞳に、揺れはない。

――もちろん。もう決めた。

夕食前、司朗が帰宅した。運転手が送ってきたらしい。稲巳は帰っていない。

司朗は玄関からまっすぐダイニングへ行き、食卓を見て眉をひそめた。

「ママ、晩ごはん作ってないの?」

声を張り上げる。

姫空は二階からゆっくり降りてきた。

「ママ、なんで作ってないの?」

司朗の口調には露骨な苛立ちが混じっている。

「帰ってくるって知らなかった。お腹すいたなら長島さんに作らせる」

「いい。食べない」

どうせ自分の好きじゃないものばかりだ。

さっき守萌おばさんがフライドチキンとハンバーガーを食べさせてくれたし。

姫空は司朗を見つめ、胸の奥が複雑にざわめいた。

――二、三歳の頃は、あんなに懐いていたのに。

いつから変わった?

……守萌が帰国してからだ。

守萌おばさん、守萌おばさん。

嘘までついて会いに行くようになった。

司朗だけじゃない。稲巳もそうだ。

もともと冷淡だった態度が、守萌の帰国を境に氷点下まで落ちた。

姫空は静かに尋ねた。

「司朗。ママとパパが離婚したら、どっちについてくる?」

司朗は自分の息子だ。十八歳までは育てる義務がある。

もちろん、選択は尊重する。

「ママ、だから言ったじゃん。パパと守萌おばさんは仕事だって。もうやめてよ」

その一言で、答えは十分だった。

「分かった」

姫空が淡々と返すと、司朗はほっとしたように駆け寄り、抱きついた。

「ママ、さっき嘘ついたの怒ってるんでしょ。でも本当に友だちと遊んでて、ついでにパパの会社に寄っただけなんだ」

姫空は抱き返さない。何も言わない。

ついでかどうかなんて、もうどうでもよかった。

「ママ、眠い。寝るね。明日の朝、サーモンがいい。キュウリとニンジンは抜いてね」

言い捨てて、司朗は二階へ上がっていった。

姫空も部屋へ戻り、書きかけだった離婚協議書を最後まで書き上げた。

それをベッドサイドに置き、パジャマを持ってシャワーへ。

戻ってきて、癖でスマホを手に取る。時刻は0時。

稲巳はまだ帰っていない。

トーク画面を開き、いつものように文字を打つ。

――いつ帰るの?

送信しようとして、指が止まった。

一文字ずつ削除する。

離婚するって決めたのに、何を気にしてるの。

結婚前、稲巳が深夜に帰宅途中で事故に遭い、大量出血して死にかけた。

夜で誰にも気づかれず、失血で意識が遠のいていたところを、たまたま通りかかった姫空が見つけ、救急車を呼んだ。

その恩で、彼は彼女と結婚した。

結婚してから七年。

0時を過ぎても帰らない日は、必ずメッセージを送った。

昔は冷たく一言返ってきた。

だがここ二年、返信は一度もない。

姫空はスマホの電源を落とし、放り投げてベッドに横になった。

うとうとする中、足音が聞こえる。

薄く目を開けると、稲巳が戻っていた。

彼もこちらを見た。

姫空が寝ているのを見て、顔がさらに冷える。

以前なら、どれだけ遅くても姫空は待っていた。

風呂の湯を張り、寝間着を用意して。

姫空は一度だけ彼を見て、背を向け、目を閉じた。

何か言うかと思ったが、稲巳は何も言わない。

そうだ。

守萌との噂なんて、今に始まったことじゃない。

彼が姫空に説明したことなんて、一度でもあった?

――私は、何を期待してたんだろう。

姫空は静かに言った。

「正木稲巳……離婚しましょう」

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