第10章 『親友』
電話を切ると、若井京は得意げに口角を上げた。
「ほらね。あの女が稲巳と離婚できるわけないじゃん」
「で、なんて?」久野白が興味津々に身を乗り出す。
若井京は笑って言った。
「すぐ行くって」
その言葉を聞いた正木稲巳は、口元をわずかに持ち上げ、グラスを取り上げると酒をひと口含んだ。
林田守萌の表情が、ほんの少しだけ強張る。すぐに『親友』の顔を作って口を挟んだ。
「ねえ、姫空のこと、そんなふうに弄ぶのってどうなの?」
「弄ぶって何だよ。俺たち、姫空と稲巳の仲を進展させてやってんじゃん」若井京が言い返す。
「それは稲巳が受け入れてくれてこそでしょ」守萌が咎める。
この場にいる誰もが知っている。
正木稲巳が狩野姫空を好きじゃないことくらい。
結局みんな、面白がって眺めているだけだ。
「それは俺のせいじゃないね」若井京は眉を上げ、白々しく肩をすくめた。
久野白も調子を合わせる。
「そうそう。そもそもあいつが、勝手に『あなたの命の恩人は私です』みたいに恩を着せてこなきゃ、稲巳の嫁になれたわけないだろ。守萌、あの女、君の幸せ奪ったんだぜ? それなのに庇うの?」
「……でも、親友だし」守萌は小さく呟き、どこか悔しさを滲ませる。
若井京が鼻で笑う。
「親友? あいつ、善人じゃないって」
「芸能界にいるならさ、そんな甘いこと言ってる場合じゃないよ」久野白が忠告めいた口調で言った。
その間も、正木稲巳は一度も会話に入らない。
ただ静かに座っているだけ。まるで、話題の中心が自分ではないかのように。
久野白が時間を確認し、にやりとした。
「8分経過。若井京、お前の負け」
若井京が露骨に不機嫌になる。
「狩野姫空、どういうつもりだよ。今まで8分超えたことなんてなかったのに」
さらに2分。――来ない。
さらに10分。――影すら見えない。
「……え、どういうこと? まさか本当に来ないとか?」
「さあ……」
若井京も久野白も、声が急に小さくなった。大きな声を出すのが怖い。
周囲の空気が、みるみる冷え切っていく。背筋が粟立つほどの冷気。
二人はそっと正木稲巳を盗み見て、口を噤んだ。
林田守萌が、慌てて姫空を庇うように言う。
「姫空、車持ってないし……この時間だとタクシーも捕まりにくいんじゃない?」
苦しい理由だったが、誰も反論しなかった。
正木稲巳はグラスの酒を一気に飲み干し、ドン、と乱暴にテーブルへ置く。
そして無言のまま立ち上がり、個室を大股で出て行った。
その間、誰一人、まともに息をすることすらできなかった。
……
狩野姫空は車で家に戻り、地下駐車場に停めると、そのままエレベーターで1階へ上がった。
「おや。帰ってくることは覚えてたのね。専業主婦のくせに、毎日外ばっかり。家を空けてばかりで、みっともないったら」
上がった途端、梅崎静の冷笑まじりの叱責が飛んできた。
姫空は視線を向ける。
「私のこと言ってるの? それとも、自分のこと?」
「私と比べる気? あんたが何様よ」梅崎静が声を荒げる。
姫空は頷き、淡々と言った。
「うん。私は人間。物扱いされる筋合いはないし、あなたと同類でもない」
「自覚があるだけマシね」梅崎静は得意げに笑った。
――が、すぐに違和感に気づき、顔色がさっと青くなる。
「狩野姫空……今、私を侮辱したわね?」
その頃には姫空はもう階段を上がっていた。
以前の姫空は、梅崎静に対してひたすら低姿勢だった。それが今は、言い返して、あまつさえ皮肉まで。
こんな変化、梅崎静が耐えられるはずがない。
姫空は部屋に入り、ドアを閉め、外の声を遮断した。
拳を振り下ろした先が綿なら、痛いのは殴った側だ。
音楽を流し、メイクを落としながら耳を塞ぐ。外のすべてを、切り捨てるように。
姫空は正木稲巳を迎えに行かなかった。
分かっていたからだ。これは、あいつらの悪ふざけ。
正木稲巳は、彼女を尊重しない。愛してもいない。
彼の友人たちも、彼女を娯楽の玩具みたいに扱う。
恥をかくのを見て、惨めになるのを見て、笑う。
今日みたいに電話一本で呼びつけることは、林田守萌が戻ってきてからのこの2年、数え切れないほど繰り返された。
慌てて駆けつければ、待っているのは大爆笑。
姫空は道化みたいに突っ立って、助けもなく、みじめに立ち尽くす。
――これが、偏愛というやつなのだろう。
梅崎静に可愛がられるのは守萌で、十月十日かけて産んだはずの息子まで、守萌に懐く。
正木稲巳の友人たちまで、守萌の味方をして守る。
結局は、正木稲巳の態度ひとつ。
彼が大切にする人間を、周囲もまた大切にする。
姫空はメイクを落とし、シャワーを浴び、ベッドに横になった。
……
正木稲巳が帰宅すると、地下駐車場で目に入ったのは、見慣れない地味なBMWだった。
彼のガレージに、こんな安い車はない。
姫空がカードで2,600万も使ったことを思い出し、すぐに察する。
――車を買ったのか。
その瞬間、正木稲巳の顔が険しくなった。陰った表情に、霜が降りたような冷たさが張りつく。
「稲巳、お帰りなさい」梅崎静が寄ってくる。
正木稲巳は一瞥しただけで、姫空の姿がないことに気づいた。
「……あいつは?」
「誰?」梅崎静が一瞬きょとんとし、すぐに不機嫌そうに言い直す。
「狩野姫空のこと? 上よ。帰ってきたと思ったら部屋に引きこもって。朝も早いし夜も遅いし、ここをホテルか何かだと思ってるのよ」
「いつ帰った?」正木稲巳が問う。
その『気にし方』に、梅崎静はまた目を瞬かせた。
「だいぶ前よ。……1時間以上は経ってるんじゃない?」
正木稲巳は冷え切った顔のまま、二階へ上がっていった。
梅崎静は背中を見送りながら、違和感を拭えない。
いつから稲巳は、狩野姫空なんかを気にするようになった?
正木稲巳が部屋のドアを押し開けると、姫空はベッドでスマホを眺めていた。
彼が入ってきても、ちらりと目を上げただけ。
その冷淡さが、正木稲巳の苛立ちに火をつける。
冷えた声に、濃い詰問が滲んだ。
「……どうして来なかった」
「『狼が来た』を何度もやれば、誰も信じなくなる。そういうことじゃない?」
姫空は軽く言ってのける。
それは見えない平手打ちみたいに、正木稲巳の顔面を打った。
正木稲巳は鼻で笑い、ジャケットを脱ぎ捨てると、一歩ずつ近づいた。
「面白いと思って遊んでるなら、俺も付き合ってやる」
「正木稲巳、何する気?」姫空の表情が強張る。
正木稲巳は覆いかぶさり、姫空を押さえつけたまま見下ろした。
「これが、お前の望みだろ」
「生理中なの。無理」姫空が拒む。
正木稲巳の薄い唇が、わずかに吊り上がる。
――信じていない。姫空にはそれが分かった。
次の瞬間、正木稲巳が唇を塞いだ。乱暴で、容赦がない。
息が詰まり、姫空は苦しくなる。
それでも彼は、いたわる気配すら見せない。動きは荒く、力任せだった。
2年も夫婦の営みがなかった姫空の身体は、皮肉なほど敏感になっている。
けれど、もう離婚のところまで来ているのに、今さら触れられたくない。
それでも本能の反応だけは、意志で止められない。
「正木稲巳……やめて」
「やめろ?」正木稲巳が口元を歪める。
「……楽しんでるようにしか見えないけどな」
その言葉は、姫空にとって剥き出しの侮辱だった。
ビリッ、と音を立てて上衣が裂かれる。
肌に冷気が走り、姫空は思わず身を震わせた。
