第7章 車を買う
狩野姫空と狩野教授はどういう関係なのか。
周囲はすでに、狩野姫空の素性をあれこれと探り始めていた。
「狩野教授」
開発部を取り仕切る篠原権が、大股でこちらへやってくる。
篠原権――昨日の懇親会にも顔を出していた男だ。狩野姫空も、名前くらいは知っている。
狩野乃亜が言った。
「篠原部長、狩野姫空のこと、お願いします」
「承知しました」
篠原権は慌てて頭を下げる。
狩野乃亜は用件を済ませると、姫空へ視線を移した。さっきまでの公的な空気がふっとほどけ、声が柔らかくなる。
「何かあったら電話しろ」
「うん」
狩野姫空は小さく頷いた。
狩野乃亜にはまだ仕事があるらしく、開発部に長居はしない。ひと通り指示を出すと、そのまま去っていった。
篠原権は自ら姫空の席を用意してくれる。
「狩野さん、今後はここで。実験1課と一緒に動いてもらいます。最近1課は抗アレルギー薬を進めていてね。現時点のデータを送らせるから、目を通して参加してくれ」
研究畑の人間にしては、篠原権は人の扱いがうまい。
姫空の実力は未知でも、「狩野教授」がここまで気にかけている以上、粗末にできるはずがない。1課に入れるのも、重視しているという分かりやすい意思表示だった。
その話が回った瞬間、1課――いや、他の班まで空気がざわつく。
姫空の容姿に、最初から色眼鏡をかける者もいる。
「顔で入ったんだろ」
そんな視線が、隠しきれずに刺さってくる。しかも身元が怪しいとなれば、なおさらだ。
篠原権が言った。
「梅崎課長。狩野姫空は君の班に。データを一部共有して、面倒を見てやってくれ」
梅崎宇作。実験1課の課長だ。
「……分かりました」
返事は淡々としていた。
姫空の加入そのものに反対はない。能力があるなら歓迎する。
だが、能力がないなら――どんな後ろ盾があろうと、追い出す。それだけの目をしていた。
篠原権と梅崎が去ると、1課のメンバーがどっと集まってくる。
「狩野さん、狩野教授とはどういう関係なんですか?」
「同じ狩野だし、もしかして妹さんとか?」
遠慮のない質問が飛ぶ。
狩野姫空は微笑みを崩さず、言葉を選んだ。
「日本は同じ苗字の人も多いですしね。以前、狩野教授の助手を1年ほどしていました」
正面からは答えない。けれど、最低限の情報だけは置く。
それ以上は踏み込ませない――そんな線引きだった。
相手も察したのか、気まずそうに散っていく。
久しぶりに人の輪の中へ放り込まれ、姫空は内心ひどく緊張していた。皆が離れたのを見て、ようやく息を吐く。
席に着いたところへ、梅崎が資料を持ってくる。
「これが新規データです。目を通しておいてください。午後、次の段階について会議をします」
「分かりました」
姫空は受け取った。
読み始めようとした、そのとき。
狩野乃亜の秘書、南いきが現れ、朝食の袋を差し出した。
「狩野嬢。狩野教授からです」
乃亜は、姫空が慌ただしく出勤して朝食を抜いたと見抜いていたのだろう。開発部を出たあと、南に買わせたに違いない。
姫空は一瞬きょとんとしてから、受け取った。
「……ありがとう」
南いきがわざわざ届けに来た――その事実が、周囲の憶測に油を注ぐ。
「やっぱり色で取り入ったんだ」
そんな確信めいた視線が増える。
とはいえ、狩野乃亜が後ろにいる。露骨に敵対する者はいない。
ただ、関わらない。触れない。存在しないものとして扱う。
それが、この場の暗黙のルールになった。
姫空は気にしなかった。
朝食を済ませると、すぐに資料へ意識を沈める。
午前いっぱい使い、梅崎から渡されたデータを読み切った。
昼食後、気になる箇所に印をつけ、会議の連絡が入ると1課の面々と会議室へ向かった。
議題は抗アレルギー薬の開発。
開始早々、議論は白熱する。意見がぶつかり、誰も譲らない。
姫空は黙って聞いていた。
会議が半分を過ぎても、結論は出ない。
そのとき、姫空が静かに手を挙げた。
「梅崎組長、発言してもいいですか?」
一斉に視線が集まる。
疑い、冷やかし、様子見――そういう色が混じった目。
梅崎が頷く。
「どうぞ」
「はい」
姫空は自分のメモを開いた。
「午前中にいただいたデータを拝見しました。次に進めない理由なんですが……そもそも、最初の前提が間違っていると思います」
会議室がどよめく。
姫空は、問題のある数値と条件設定をいくつも示し、根拠と解析を積み上げていく。
言い切るのではなく、論理で詰める。反論の余地を削っていく。
発言が終わった瞬間、梅崎の表情が変わった。
驚き――そして、評価へ。
「……午前中のデータ、全部見たんですか?」
「はい」
姫空は頷く。
梅崎は姫空を見直すように、じっと観察した。
あの量を理解するだけでも丸1日はかかる。自分でもそうだ。
それを半日で読み切り、問題点まで拾い、印をつけている。
1課のメンバーたちも、目の色が変わっていく。
「飾り」だと思っていた印象が、音を立てて崩れた。
そこからは、姫空を交えて議論が進む。
最終的に、翌日から新条件で実験を組み直すことで一致した。
会議室を出るころには、退勤時間になっていた。
狩野乃亜からメッセージが入る。
駐車場で待っているから、そのまま降りてこい――と。
姫空は片づけをし、同僚に挨拶して地下へ向かった。
地下入口の前に、乃亜の車が停まっている。
姫空が乗り込むと、乃亜が横目で見る。
「どうだ。初日、やれそうか?」
姫空は頷いた。
「うん。思ってたより大変じゃなかった。意外と、ちゃんと馴染めたよ」
七年ぶりに外の人間関係へ戻ったのだ。簡単なはずがない。
それでも、姫空は折れなかった。
乃亜が笑う。
「ほらな。お前ならできる。誰だと思ってる――俺の妹だぞ」
姫空は思わず吹き出した。
二人はディーラーへ向かい、乃亜は入ってすぐ、ピンクのスーパーカーに目を奪われた。
「キキ、これどうだ? 似合うと思う。昔、お前こういうの好きだっただろ。これにしよう」
姫空は一度見て、首を振る。
「派手すぎるよ。通勤用だし、そんなに目立たなくていい」
そう言って、隣の比較的落ち着いた車種へ視線を移す。
「……こっちでいい」
乃亜が値札を見て眉を寄せた。2,000万。
「普通すぎないか? 遠慮するな。兄さんが買ってやる」
姫空は静かに笑った。
「乃亜兄さん、勘違いしてる。お金を惜しんでるわけじゃないよ。たぶん、今は考え方が変わったんだと思う。必要以上のものはいらない。これは低調で便利だし、十分」
そこまで言われれば、乃亜も押し切れない。
「……分かった。じゃあ、それで」
乃亜がカードを出そうとすると、姫空が手を伸ばしてそれを戻し、自分のカードを差し出した。
「乃亜兄さん。私が買う」
乃亜が何か言いかけた、その前に。
姫空は穏やかな声で、淡々と言った。
「このお金、私が使わなくても……誰かが代わりに使うだけでしょ?」
乃亜は一瞬黙り、それから小さく笑ってカードを引っ込めた。
