第8章 彼を甘やかしすぎた

ピコン――。

仕事の真っ最中だった正木稲巳のスマホに、一本のメッセージが届いた。

何気なく画面を確認する。そこに表示されていたのは、利用通知。

――2,600万円の決済が完了しました。

狩野姫空が使っているカードは、正木稲巳名義の家族カードだ。彼女が支払えば、稲巳の端末に即座に通知が飛ぶ。

稲巳は一瞥しただけで、スマホをデスクへ戻した。

姫空の買い物に口を出したことは、一度もない。

それに、この程度の金額は彼にとって痛くも痒くもなかった。

手続きがいくつか残っていたため、ディーラーは「納車は明日で」と姫空に告げた。必要な書類は向こうで整えてくれていて、彼女は明日取りに行くだけでいい。

帰りは、狩野乃亜が姫空を送ってくれた。

「ねえ、乃亜兄さん。顔が広いでしょ。研究所の近くで、いい物件がないか探しておいて。離婚したら出ていくし、住む場所が必要だから」

姫空は、何事も先に段取りを組んでおくタイプだ。土壇場で慌てたくない。

「家なんて買わなくていいだろ。俺の名義で何軒もある。気に入ったところにそのまま入ればいい」

「……私は、自分で買いたいの」

乃亜は姫空を見て、意図を察したのか、短く頷いた。

「分かった。聞いとく」

「うん」

余計な面倒を避けるため、姫空は交差点で降ろしてもらった。そこからは歩いて帰る。

家に梅崎静の姿はない。使用人によれば、正木司朗は帰宅してすぐ自室に引っ込んだらしい。

姫空は身支度を整えると、司朗の部屋へ向かった。

コン、コン。

返事がない。眠っているのだと思い、ドアを押し開ける。

「っ……!」

司朗がびくりと肩を跳ねた。姫空の姿を見た瞬間、慌てて何かを隠すように、机の上のパズルを手で覆いながら怒鳴る。

「ママ! 何回言ったら分かるの。入るときはノックしてって!」

「したわ。返事がなかったから、寝てるのかと思っただけ」

司朗は言い返せず、口をつぐむ。

姫空は淡々と尋ねた。

「夜ごはん、何がいい?」

「……何でもいいよ」

苛立ちを隠そうともしない声。

「分かった」

姫空はそれだけ言って部屋を出た。

さっき、見えてしまった。

司朗が組んでいたのは、人の形をしたパズル。まだ半分ほどしか完成していなかったが、あれが林田守萌だと分かる。

もうすぐ守萌の誕生日だ。――そして、姫空の誕生日でもある。

同じ日に生まれたことがきっかけで、二人は急速に仲良くなり、いつしか「親友」と呼べる存在になった。

一緒に祝って、同じケーキを前に願い事をして、ろうそくを吹き消して、互いに「おめでとう」を言い合った。

けれど、姫空が正木稲巳と結婚してから――二人で誕生日を過ごしたことは一度もない。

姫空自身も、誕生日を祝われた記憶がない。

正木家では、誰も彼女の誕生日を覚えていない。息子でさえ。

姫空が階段を下りると、梅崎静は夕食に戻らないと告げられた。

それなら、と厨房に「適当に」とだけ指示を出す。

使用人たちは内心首を傾げていた。これまで食事も身の回りのことも、姫空はほとんど自分でやってきたのに、この二日ほどは厨房にすら足を踏み入れていない。

夕食が整い、司朗を呼びに行かせる。

姫空は先に席につき、一人で食べ始めた。

やがて司朗が降りてきて、料理を見た途端、露骨に顔をしかめる。

「なにこれ。僕、エビがいい。サーモンも。ママ、作ってないの?」

姫空は箸を止めず、静かに返した。

「さっき聞いたでしょう。何がいいって。あなたは『何でもいい』って言った」

その瞬間、姫空はようやく気づく。

司朗の横暴さは、生まれつきだけじゃない。自分が甘やかして育てた部分も、確かにある。

――もう、甘やかさない。

自分への態度も、好きにすればいい。

司朗は言葉に詰まり、バツが悪そうに視線を逸らすと、子どもじみた意地を張った。

「……ふん。もう食べない」

「好きにして」

姫空は淡々と食事を続けた。

一食抜いたところで死にはしない。

司朗はしばらく待った。けれど、ママは来ない。慰めてもくれない。

いつもなら、怒れば長いこと宥めてくれたのに。

その落差が、司朗の怒りをさらに煽った。

椅子から飛び降り、ドタドタと足音を立てて部屋へ戻っていく。

――今夜は本気で怒っている。ママが来たって、もう簡単には許さない。

姫空は追わなかった。食事を終えると、自室へ戻る。

稲巳が帰宅したかどうかも気にせず、シャワーを浴びてそのまま眠った。

一日働けば、体は正直だ。

疲れてしまえば、余計なことを考える暇もない。

一方その頃。

正木稲巳はスマホを見下ろし、時刻が0時を回っていることに気づいた。

――通知も、着信も、何ひとつない。

「稲巳、何してんだよ。ずっとスマホ見て。ほら、飲め」

声をかけられ、稲巳はスマホを伏せてグラスを取り、酒を一息にあおった。

……今さら、こんな小細工か。

口元に浮かぶ嘲りが、いっそう深くなる。

その頃、怒りで眠れなかった司朗は、空腹で目を覚ました。

まさか、ママが一晩中来ないなんて思っていなかった。

ムッとしたままベッドを降り、姫空の部屋へ向かう。

ドアを開けると、姫空はぐっすり眠っていた。

司朗は腹立ちまぎれに、姫空の肩を叩く。

「ママ。お腹すいた」

「……ん」

姫空は短く返事をしただけで、また眠りに沈む。

司朗は目を見開いた。

「だから! お腹すいたって言ってる!」

姫空がようやく起き上がる。

司朗は勝ち誇ったように口元を緩めた――が。

姫空は司朗の腕を掴み、そのまま廊下へ押し出した。

「夜は自分で食べないって言ったでしょう。今さらお腹すいたなら、我慢しなさい」

バタン。

ドアが閉まり、カチャリと鍵がかかる音。

姫空はベッドに戻り、何事もなかったように目を閉じた。

稲巳の帰りが遅いから、これまで鍵をかける習慣がなかった。

でも、これからは――鍵をかけて眠る。そうしないと、安らげない。

司朗は廊下に取り残され、呆然と立ち尽くした。

突然、関心を向けられなくなった。

その現実が胸に刺さり、どうしようもなく惨めで、悔しくて。

鼻の奥がつんと痛み、目が熱くなる。

司朗は袖で乱暴に涙を拭い、嗚咽をこらえながら自室へ戻った。

正木稲巳が帰宅したのは1時過ぎだった。

寝室のドアノブを回して――開かない。

鍵がかかっている。

稲巳の整った顔が、一瞬で陰る。

そのまま踵を返し、書斎へ向かった背中は、氷像のように冷たかった。

翌朝。

姫空は目覚めた瞬間、自分でも分かるほど体が軽かった。

七年間で、こんなに深く眠れたことがあっただろうか。

身支度を整え、メイクを済ませて階下へ降りる。

ダイニングには父子が揃っていた。二人とも不機嫌を隠さず、黒い顔で朝食を取っている。

姫空は気に留めない。自分の席につき、黙々と朝食を口に運ぶ。

さっき乃亜からメッセージが来ていた。もうすぐ迎えに来るらしい。急ぐ必要もない。

稲巳は朝食を終えると、最後まで姫空に一言もかけずに出ていった。

司朗も稲巳の真似をするように、ずっと仏頂面で姫空を無視し続ける。

姫空は気にしない。

淡々と食べるだけ。

苛立ちの行き場を失った司朗は、箸を乱暴にテーブルへ放り投げた。

だが、その瞬間。

着信音が鳴る。画面には林田守萌のビデオ通話。

司朗の表情が、嘘みたいに明るくなる。

「守萌おばさん! やっと電話くれた! この二日、会えなくてさ……めちゃくちゃ会いたかった!」

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