第9章 賭けをしよう
狩野姫空が家を出るとき、正木司朗と林田守萌が電話で話している声が耳に入った。
彼女は表情ひとつ変えず、バッグを手にそのまま外へ出る。
乃亜兄さんからは『もう着いた』とメッセージが来ていた。
正木司朗は姫空の背中を見送りながら、胸の奥がさらに苛立ちで焼けた。
さっきまで守萌おばさんとビデオ通話して、わざと大きな声で話していたのに――ママは、何ひとつ聞きに来なかった。
腹が立つ。悔しい。……それ以上に、悲しい。
姫空が会社に着くと、同僚たちと一緒に実験室へ入った。
昨日データに目を通し、いま開発中の抗アレルギー薬についてはある程度把握している。もともと自分の中でも段取りは組んでいた。
だから実験そのものは、思ったほど難しくない。
とはいえ、七年ぶりの実験室だ。器具に触れるのも久しぶりで、手つきはどうしても鈍る。
しかも機材は更新され、以前の操作方法とは違うものもある。使い方が分からない器具もあり、同僚たちに助けてもらいながら、丸一日かけて以前の1課の実験をもう一度やり直した。
梅崎宇作は、彼女の真剣で迷いの少ない動きを見つめ、瞳いっぱいに感嘆を浮かべていた。最初に抱いていた色眼鏡など、もう欠片もない。
1課のほかのメンバーも同じだ。
狩野姫空は、コネで入ってきた飾り物じゃない。
「見て」
姫空がモニターを指さす。数値が変動していくのを見て、彼女だけでなく周囲も息を呑んだ。
胸が高鳴る。手のひらが汗ばむ。
――なるほど。狩野教授が彼女を重視するわけだ。ちゃんと、実力がある。
「狩野さんって、どこで院に行ってたんですか? 指導教官、相当すごい人なんでしょうね」
姫空は小さく笑った。
「院には行ってないんです。でも、先生は……本当にすごい人でした」
口元は笑っているのに、瞳の奥だけがふっと沈む。
先生のことを思い出すと、胸が痛い。
全力で育ててもらったのに、自分は正木稲巳のために学業を投げ出した。気づけば、何の取り柄もない専業主婦みたいな存在になっていた。
会いに行きたい気持ちはある。けれど――顔向けできない。
以前なら『院にも行ってないのに?』と疑われたはずだ。
だが今は違う。目の前の結果が、彼女の力を証明していた。
梅崎宇作は、姫空の瞳をかすめた陰りを見逃さない。
この人には、きっと物語がある。そんな気配がした。
姫空は感情をしまい込み、話を仕事へ戻す。
「現時点の結果だと、次の検証に進めます」
成功と言い切るには、まだ早い。
「うん。今回は本当に助かったよ。もう半月近くここで詰まってたのに、君が来た途端に進んだ」
「そうそう。狩野さんがいなかったら、いつまで足踏みしてたか分からない」
褒め言葉が重なるたび、姫空はどこか居心地悪そうに視線を泳がせた。
七年だ。
褒められることなんて、ほとんどなかった。返ってくるのは、否定と小言ばかり。
梅崎宇作はそのぎこちなさを察し、場を整えるように言った。
「よし。次の段階に入ろう。みんな、作業に戻って。明日またまとめて話そう」
彼の一声で、メンバーは次々と実験室を出て、それぞれの仕事へ散っていった。
最後に残った姫空へ、梅崎宇作がまっすぐ言う。
「君は、すごい」
飾り気のない、心からの評価だった。
姫空の胸がじんわり温かくなる。
「……ありがとうございます」
梅崎宇作はそれ以上は何も言わず、静かに実験室を出ていった。
姫空はすぐには出なかった。
自分が積み上げた結果を見つめる。まだ開発は半分にも届かない。それでも、今の自分には十分すぎるほどの“小さな達成”だった。
退勤間際、狩野乃亜からメッセージが届く。『部屋、見つかった』
仕事が終わると、乃亜が彼女を連れて内見へ向かった。
クラウドガーデン。
高層マンション群ではなく、最高でも七階建ての落ち着いた造りだ。各フロア一世帯で、1棟あたりの広さはおよそ400平米。空間に余裕がある。
セキュリティも申し分ない。
案内されたのは七階。さらに小さなロフトが付いていて、陽だまりの書斎に改装できそうだった。
姫空は一目で気に入った。
その場で決め、土曜の午前に契約することになった。
……
その頃、ロイヤルクラブは人いきれと喧騒で満ちていた。
最上級の個室では、酒と笑い声が渦を巻く。騒がしく、派手で、享楽的。
その中で正木稲巳だけが静かに座り、グラスを傾けていた。場の空気から、ひどく浮いている。
「稲巳、どうした? せっかく飲みに出てきたのに、テンション低すぎだろ」
若井京が肩を抱くように腕を回す。周囲の視線も集まった。
林田守萌は稲巳の顔を見つめ、探るような口調で切り出す。
「稲巳……姫空が、あなたと離婚したがってるって聞いたんだけど?」
稲巳の眉間の皺がさらに深くなる。深い眼差しが守萌に落ちた。
「守萌、あの女が稲巳と離婚したいって?」
若井京が目を丸くする。まるで信じられないニュースでも聞いたように。
「冗談だろ? 聞き間違いじゃないのか?」
守萌は小さく頷いた。
「本人から聞いたわ」
若井京は鼻で笑い、稲巳へと視線を投げる。
「稲巳、あれだろ。また何かの駆け引きじゃねえの?」
「お前の奥さん、手が込んでるよな」
久野白が嘲るように言い添える。
稲巳は表情を沈めたまま、答えない。
若井京はなおも軽口を叩く。
「だってさ、あの女はお前のこと大好きで、頭の中お前だけだろ。離婚なんてできるわけない」
その言葉に、稲巳の暗い顔色がわずかに和らいだ。
「じゃ、賭けようぜ」
「何を?」
「稲巳への執着度。今ここで電話してさ、『稲巳が酔いつぶれた』って言ってみろよ。何分で飛んでくるか」
久野白が即座に乗る。
「俺は10分」
「じゃあ俺は8分」
二人の視線が稲巳に集まる。守萌も息を詰めるように見守った。
少しの沈黙。
やがて稲巳が、薄い唇を開く。
「好きにしろ」
守萌の瞳にあった緊張が、ふっと笑みに変わる。
本当に稲巳が姫空を大事に思っているなら、友人にこんなふうに侮らせるはずがない。
若井京はその場で姫空に電話をかけた。
クラウドガーデンを出たばかりの姫空のスマホが鳴る。
「もしもし、義姉さん? 稲巳が飲みすぎてさ。迎えに来てくれない? ロイヤルクラブにいる」
「分かった」
姫空はそれだけ答え、通話を切った。
隣で乃亜が首を傾げる。
「こんな時間に誰?」
「正木稲巳の友だち。飲みすぎたって」
姫空の声は淡々としていた。顔にも、波ひとつ立っていない。
乃亜は眉をひそめ、何か言いかけて――結局、飲み込む。
姫空は微笑んだ。
「乃亜兄さん、遅いし。私は先に帰るね」
乃亜は渋い顔のまま、最後まで何も言わなかった。
姫空は車を出す。ここへ来たのも、自分で運転してきたのだ。
クラウドガーデンの入口で軽く別れを告げ、彼女はハンドルを握ったまま夜の道へと走り出した。
