第3章
北野羽月視点
スマホのプッシュ通知の嵐で目が覚めた。
【衝撃!アカデミー賞の新星、枕営業疑惑!】
【北野羽月は如何にして黒木プロデューサーを『攻略』したか】
【関係者筋が暴露――『真実の下に』の主演は内定済み、オーディションはただの出来レース】
私は悪意に満ちた記事を次々とスクロールしていく。どれもこれも、私が役のために身体を売ったと匂わせるものばかりだ。橋本日葵……あの女、本気で潰しに来たってわけね。
そこで電話が鳴った。画面には『黒木涼』の名前が光っている。
「あのクソみたいな見出し、見たか?」
彼の声は疲労と、隠しきれない怒りを滲ませていた。
「ええ、見たわよ。反吐が出るほど見事なもんだこと」
私は鼻を鳴らし、大げさに目を剝いてみせた。
「広報には連絡して対応させてる。だが、今一番重要なのは……」
「奴らの顔面に、事実を叩きつけてやることよ」
私は彼の言葉を遮り、歯ぎしりした。
「オーディションは何時から?」
「二時間後だ。北野羽月、あんなゴミに影響されるな。君の役が揺らぐことはない」
電話を切り、私はクローゼットへ向かった。今日はただ自分の演技力を証明するだけじゃない。私を疑った連中を、公衆の面前で完膚なきまでに叩きのめす日だ。本物の才能ってやつを見せつけてやる。
スタジオのオーディション会場は、ナイフで切り裂けそうなほどの緊張感に包まれていた。待合室には何十人もの女優たちが座っている。皆、完璧なメイクを施し、その瞳は主役の座への渇望で燃えていた。
私が入ると、多くの者が複雑な視線を向けてきた。同情的な目を向ける者、私の不幸を喜んでいるような者、そして、剥き出しの嫉妬と軽蔑を向ける者もいた。
騒動のせいで私が降板させられるとでも思っているのだろう。馬鹿な連中。
私はあえて一番目立つ席を選び、優雅に脚を組むと、『真実の下に』の台本を開いた。橋本日葵が流した噂のせいでこのオーディションが開かれていることは分かっていたが、心配は微塵もなかった。私はアカデミー賞女優なのだから。
「あら、お姉様。最近はお忙しいんですってね――大物プロデューサーとの『深い共同作業』で」
黒板を爪で引っ掻くような不快な声だった。顔を上げると、高価なシャネルのスーツに身を包んだ北野千夏が、得意げな顔で私の前に立っていた。メイクアップアーティストが腕を振るったのは明らかだが、それでも彼女の平凡な顔立ちを隠しきれてはいない。
何人かの女優が、このドラマの展開を見守ろうとこちらに顔を向け、中にはスマホでこっそり録画している者までいる。北野千夏がわざわざこのタイミングで面倒を起こしに来たのは明白だった。
「ええ、本物の共同作業について話し合っているところよ」
私は台本から目を上げずに答えた。
「夢想しかできない誰かさんとは違ってね」
「夢想ですって?」
北野千夏の声が鋭くなる。
「北野羽月、まさかそんな小手先のことで全てが解決するなんて思ってないでしょうね?演技力ってものは、ベッドを転げ回って身につくものじゃないのよ」
待合室は水を打ったように静まり返った。誰もが固唾を飲んで、ショーの続きを待っている。
私はゆっくりと台本を閉じ、立ち上がって優雅にドレスのしわを伸ばした。そして北野千夏に向き直ると、唇に冷たい笑みを浮かべた。
「北野千夏、嫉妬は本当に人を醜く、そして愚かにするものね」
私は一歩近づき、彼女にしか聞こえないように声を潜めた。
「それに、ベッドに寝るチャンスすらない人もいるじゃない?」
北野千夏の顔が真っ赤に染まった。彼女は口を開いたが、言い返す言葉を見つけられなかった。
その時、アシスタントがドアを押し開けて入ってきた。
「北野千夏さん、オーディションのお時間です」
待合室のマジックミラー越しに、私はオーディションルームの様子を窺った。審査員席の中央には、工藤武監督その人が座り、厳しい表情を浮かべていた。この伝説な監督は要求が高いことで有名で、彼を感心させることができた俳優は片手で数えるほどしかいない。
北野千夏は自信ありげに前へ進み出て、深々とお辞儀をした。
「工藤監督、北野千夏と申します。この度はこのような栄誉ある機会を……」
「始めろ」
工藤武は冷たく言い放ち、彼女に媚を売る隙も与えなかった。
オーディションの課題は、友人の死を知った鈴木玲奈が感情を爆発させるシーン。三分間で、衝撃、悲嘆、怒り、そして強さという四つの異なる感情の層を表現することが求められる。
北野千夏が演技を始めた。声は大きく、身振りは誇張され、表情は豊か……だが、そこには真に心に響くものが欠けていた。彼女は悲しんでいるのではなく、「悲しみ」を演じているだけだった。
ああ、なんて惨劇。
工藤武の眉間にしわが寄るのが見えた。三分後、彼はためらうことなく首を横に振った。
「次」
北野千夏は呆然と立ち尽くしていた。こんなにも早く切り捨てられるとは予想していなかったのだろう。
「監督、私……もう一度……」
「必要ない」
工藤武の言葉は最終宣告だった。
「演技には才能が必要だ。それは努力で補えるものではない」
スタッフに気まずそうに連れ出されていく北野千夏を見ても、同情心は一切湧かなかった。前世でもこの程度のレベルだったし、今世でも何も変わっていない。馬鹿は馬鹿のままだ。
「北野羽月さん」
ついに私の番が来た。深呼吸をして、重いオーディションルームの扉を押した。
スポットライトが一斉に私に当たり、その強烈な光に目を細める。工藤監督が、私を鋭く見つめていた。
「準備はいいか?」
「万全です」
私の声は、自信に満ちていた。
「このシーンでは、子供を失った母親の絶望を表現してもらう……」
工藤武は詳細な要求を説明し始めた。
その言葉は、私の心の最も深い痛みを抉った。咲弥の顔が、瞬時に目の前に浮かび上がる――あの無邪気な小さな顔と、死の間際の苦悶に満ちた表情が。
「その痛み、分かります」
私の目には、本物の悲しみがよぎった。
演じる必要はない。ただ、思い出すだけでいい。
私は演技を始めた。子供の死体を発見した台詞を口にした時、前世で咲弥を失った痛みがこみ上げてきた。これは演技ではない――私が真に経験した絶望そのものだった。
私の声は震えから嗚咽へ、そして怒りの咆哮へと変わり、最後には力強い静けさに落ち着いた。その過程はすべて自然に流れ、感情の移り変わりはどこにも継ぎ目がなかった。
オーディションルームは完全に静まり返っていた。スタッフたちさえも作業の手を止めている。
「カット」
工藤武の声が静寂を破った。
彼はゆっくりと立ち上がり、こちらへ歩み寄ってくる。その瞳は、畏敬に近い何かで輝いていた。
「まさにそれだ。本物の痛みは偽れない」
彼は頷いた。
「君は何を経験した?」
「失うことの辛さです」
私は簡潔に答えた。
「何もかも失う絶望を」
一時間後、女優たちはロビーに集まり、不安げに結果を待っていた。
北野千夏は隅でうずくまり、顔面は蒼白だった。自分の演技がいかに悲惨なものだったか、彼女自身がよく分かっているのだろう。
工藤監督が書類を手に現れた。その真剣な表情が、場の緊張感を一層高める。
「皆、結果が気になっていることだろう。率直に言って、今回のオーディションには大いに失望させられた」
彼は一度言葉を切り、部屋を見渡した。
「だが、驚きもあった」
誰もが息をのむ――心臓の鼓動が聞こえるほどだった。
「『真実の下に』の主役、鈴木玲奈役は……」
時が凍りついたようだった。
「北野羽月に決定する」
瞬間的に拍手が湧き起こったが、それは甲高い悲鳴にかき消された。
「ありえない!絶対にありえないわ!」
北野千夏が狂ったように前へ突進してきた。
「なんであの子なのよ!監督、何かの間違いでしょう!彼女は……彼女はただの枕営業で成り上がった売女よ!」
売女?この馬鹿女が、私を売女呼ばわりするだと?
ロビー全体が死んだように静まり返り、誰もが驚愕の表情で北野千夏を見つめていた。
「もういい!」
工藤武が怒鳴った。
「私の選択を疑うということは、私の四十年間のプロとしての判断を疑うということだ!警備員!この狂った女をここから叩き出せ!」
屈強な警備員二人がすぐに駆け寄り、北野千夏の腕を掴んだ。
「離して!離しなさいよ!」
北野千夏は髪を振り乱し、メイクも崩れながらもがいた。
「不公平よ!彼女にそんな資格はない!」
「引きずり出せ!」
工藤武が咆哮した。
「この女は、永久にスタジオの敷地への立ち入りを禁止する!」
警備員が北野千夏を引きずっていく間も、彼女の絶叫が廊下に響き渡っていた。
「おめでとう、北野さん」
工藤武は私に向き直り、笑顔を取り戻して手を差し出した。
「この役は君のためにあったようなものだ」
「監督の信頼に感謝します」
私は彼の手を握り返した。
北野千夏、これが現実よ。才能は、嫉妬なんかじゃ手に入らないの。








