第6章
三日目、私たちは京都の伝統芸術地区に到着した。
古い縁側に立ち、遠くに紅葉が色づき始めた景色を眺めながら、東京とはまったく異なる雰囲気を感じていた。ここのすべてが歴史の重みを帯びており、自然と足取りが緩やかになる。
佐々木教授が私の隣に来て、そっと囁いた。
「絢子、素晴らしい仕事ぶりだ」
私は微かに笑みを浮かべた。この数日間の古画修復作業は、久しぶりに失っていた集中力を取り戻させてくれた。
返事をしようとしたその時、携帯が一度震えた。
山本哲也からのメッセージだった。
『藤原がスケジュールを月末まで延ばしたって聞いたぞ。院長も、これ以上戻らないなら給料を差し引くって言ってる。絢子、君は本気で藤原潔志を夢中にさせたんだな』
私は苦笑いを浮かべて携帯をしまった。
藤原潔志はこの数日間、私の邪魔をしに来ることはなかった。だが、彼が京都にいることはわかっている。まるで私の頭上に垂れ込める一片の暗雲のように。
さらに私の心をかき乱すのは、ここがかつて田中安子がヴァイオリンを演奏した場所だということだった。彼女の心臓が、私にこの街へのある種の言い知れぬ親近感を抱かせているのだろうか、と時折考えてしまう。
夕暮れ時、修復チームはとある古い神社の門前に集まっていた。
皆、伝統的な祭りに参加する人数を確認しているところだった。
「招待状は、あと二枚だけですね」
彼らは名簿を確かめながら言った。
「これは限定人数の祭りで、非常に貴重なものなんです」
田中若菜が人混みの中から、優雅に手を挙げた。
「参加したいです」
団長は頷き、そして尋ねた。
「他に希望される方はいらっしゃいますか」
私も手を挙げた。京都の伝統文化を理解する良い機会だ。
団長は一瞬ためらった。
「では……」
田中若菜が突然口を開いた。その声は柔らかくも、鋭さを帯びていた。
「絢子さんは心臓に持病がおありですし、それにボランティアでしょう。ここは専門家が参加すべきではないでしょうか」
周りの人々は顔を見合わせた。
胸にチクリと痛みが走ったが、私は引き下がらなかった。
佐々木教授が絶妙なタイミングで割って入った。
「その招待状の一枚は、私が絢子のために特別に用意したものだ。彼女の伝統的な祭りへの理解は、修復作業に大いに役立つ」
私は団長の手から招待状を受け取り、佐々木教授に感謝の眼差しを送った。
田中若菜の顔から一瞬笑みが消え、硬直したが、すぐに優雅な態度を取り戻した。
「絢子さん、そんなことをしてよろしいのですか」
私は彼女を無視し、神社へ向かおうと身を翻した。しかし田中若菜はついてきて、バッグから携帯を取り出すと、ある番号に電話をかけスピーカーフォンにした。
「潔志お兄さん、私がどこにいるか当ててみて」
彼女はわざと私の隣に寄ってきた。
藤原潔志の声がスピーカーから聞こえてきた。
「神社か」
「ええ、今からお祭りに行くんです。絢子さんもご一緒ですよ」
電話の向こうは数秒沈黙し、それから藤原潔志の、穏やかだが拒絶を許さない声が響いた。
「絢子、人が多く混雑する場所は君の身体に良くない。安全のためにも、行くのはやめなさい」
怒りがこみ上げてくるのを感じた。
「今回ばかりは、私の決定に干渉しないでください」
私の声は感情を抑えつけていたが、異常なほどに固かった。
「お祭りは今夜だけです。この機会を諦めるつもりはありません」
電話の向こうは再び沈黙し、最後に藤原潔志は一言だけ言った。
「わかった」
私はほっと息をついたが、神社の入口にたどり着く前に、係員に止められた。
「大変申し訳ございません」
係員は恭しくお辞儀をした。
「医学の専門家より、心臓移植を受けられた患者様が長時間立位を必要とする儀式に参加することはお勧めできないとの連絡がございました」
「私の心臓の状態は安定しています」
私は説明した。
「それに招待状も持っています」
「申し訳ありませんが、規則ですので」
係員は譲らなかった。
田中若菜が私のそばを優雅に通り過ぎながら、低い声で言った。
「あなたの招待状は無効になったようですね」
その瞬間、私はもう自分を抑えることができなかった。
私が見られないのなら、彼女にだって見させてやるものか!
私は田中若菜の手首を掴み、力任せに振り払った。
「もうやめて!一体どうしたいの」
田中若菜は驚いたふりをして一歩後ずさった。
「絢子さん、どうか落ち着いてください。私はただあなたの健康を心配して……」
「あなたは一度だって私を心配したことなんてない」
私の声は震えていた。
「ただ藤原潔志のそばから私を追い出したいだけでしょう!」
「私はただ医師の指示に従っているだけです」
田中若菜は表向きは丁寧だが、言葉の端々に棘があった。
「なにしろあなたの心臓は私の姉のものですから。その安全を確保する義務が私にはありますでしょう?」
めまいがした。長年抑え込んできた感情が、ついに表面的な調和を保てなくなった。
「あれはあなたのお姉さんの心臓じゃない。私の心臓よ!」
私は手を振り上げ、彼女の頬を打った。田中若菜は再び甲高い悲鳴を上げた。
続く数分間、私たちはもみ合った。
こんな理性を失った行動はしたくなかった。けれど、あまりにも多くの屈辱と悲しみが積み重なり、ここで何か行動を起こさなければ、本当に気が狂ってしまいそうだった。
その時、藤原潔志が神社の入口に現れた。
田中若菜は即座に表情を変え、あたかも甚大な被害を受けたかのような顔をした。
私は疲れ果てていた。
「潔志お兄さん……」
田中若菜は傷ついたような声で言った。
「私、ただ医師の指示通りに彼女に忠告しただけなのに、彼女が突然怒り出して私を叩いたの」
藤原潔志は詳しい事情を尋ねることなく、拒絶を許さない口調で私に言った。
「絢子、謝れ」
私は顔を上げ、静かに問い返した。
「どうして彼女が謝るのではないのですか」
「君が先に自制心を失ったからだ」
藤原潔志の声には、微かな失望が混じっていた。
「ならば、私がなぜこうなったのか、あなたにはわかるはずです」
私の声は震え、心臓の鼓動が速まり、呼吸が苦しくなるのを感じた。
藤原潔志は冷ややかに言った。
「君自身の身体がどういう状態か、わからないのか。若菜も君のためを思ってのことだ。なぜ自分が悪くないと思えるんだ」
私は石灯籠に寄りかかり、必死に感情と虚弱な身体を制御しようとした。
遠く、神社の内から祭りの鐘の音が聞こえてきた。
その音は何かの合図のようだった。身体が急に硬直し、意識が朦朧とし始めた。
「絢子、どうしたんだ!絢子!」
完全に意識を失う直前、藤原潔志の表情が冷淡なものから驚愕へと変わるのが見えた。
