第2章

凌が私の護衛になってから、私はその存在に慣れ始めていた。

毎朝七時、私が書斎で書類を片付けていると、彼は決まってドアの外に控えている。口数は少なく、余計な詮索もせず、ただ静かに命令を遂行する。

主人のためにいつでも敵を噛み殺す準備を整えた、訓練された猟犬のように。

「凌、入りなさい」

彼はドアを開け、私の前に立つ。

窓から射し込む朝日が彼を照らし、顔に走る刀傷が光と影の中でより一層、獰猛さを増して見えた。

「明日は港区へ商談に行くわ。ルートを事前に手配しておいて」

私は顔を上げて彼を見た。

「承知いたしました、お嬢様」

従順に見えるが、その瞳は凍りついたように冷たく、温度というものが感じられない。

私は立ち上がり、彼の前へと歩み寄る。

「最近、ご苦労様」

肩を叩こうと手を伸ばした瞬間、彼は反射的に半歩退いた。

「何?」

私は目を細める。

「私が怖いの?」

「失礼いたしました、お嬢様」

凌は姿勢を正し、頭を下げる。

「ただ、人に触れられることに慣れていないもので」

「そう」

数秒ほど彼を見つめたが、結局私は手を引っ込めた。

「ならいいわ。車を回して」

彼が部屋を出て行く。

私は椅子に座り直し、ペン軸を指で弄ぶ。

この男は、秘密を抱えている。

だが、そんなことはどうでもいい。私に害が及ばない限り、気にするつもりはなかった。

私は立ち上がり、神代家の豪邸のバルコニーに出ると、眼下の庭園を巡回する護衛たちを見下ろした。

敷地面積三千平米を誇るこの屋敷は、神代組が三代にわたり築き上げた富の象徴だ。

祖父である神代龍一は、三十年という歳月を費やし、神代組を小さな組織から東京の裏社会を牛耳る巨大組織へと成長させた。父、神代健次が跡を継いでからは、不動産、金融、エンターテインメントといった合法的事業にも進出し、神代組の触手は東京中に張り巡らされた。

だが三ヶ月前、父は交通事故で他界した。

さらに、母である神代美咲も後を追うように病死した。

たった三ヶ月で、私は両親を失ったのだ。

継母の松本千代と、その娘の美里は西棟に住んでいる——あの女は父の愛人で、十年前に私生児である美里を連れて神代家に転がり込んできた。

母が存命のうちは猫を被っていたが、今では毎日何やら企んでいるようだ。

兄の拓生は父の長男であり、本来なら神代組の跡継ぎとなるはずだった。

だが彼は気弱で優柔不断、組織の古狸たちを抑え込む器量など持ち合わせていない。

それに最近、彼は美里と妙に親しくしており、その態度は日に日に艶めかしさを増している。

組織の内部では動揺が広がっている。長年父に従ってきた古参幹部たちは、表面上こそ「お嬢様」と恭しく呼ぶが、裏では私の手腕を疑問視している。

何しろ私はまだ二十三歳、しかも女だ。

彼らの目には、神代組は男が支配すべきものと映っているのだろう。

私は強くならなければならない。

誰も手出しできないほどに。

両親が遺したすべてを守り抜けるほどに。

凌が私の護衛になって一週間後、美里が戻ってきた。

「お兄様!」

振り返り、彼女が拓生の胸に飛び込む姿を見て、胃の腑から吐き気が込み上げてきた。

この女は、母親同様、猫を被るのが上手い。

「美里、帰っていたのか?」

拓生は笑顔で彼女の髪を撫でる。

「どうして前もって連絡しなかったんだ?」

「皆を驚かせようと思って」

美里はふと、私の背後に立つ凌に目を留め、瞳を瞬かせた。

「こちらは?」

「凌、私の護衛よ」

私は素っ気なく答える。

「護衛?」

美里は凌の前に歩み寄ると、小首をかしげて彼を品定めした。

「お姉様が凄腕の人を助けたって聞いたけど、あなたのことだったのね。凌さん、お近づきになれて嬉しいわ」

彼女は手を上げ、その指先が凌の胸に触れそうになる。

凌は一歩下がり、距離を取った。

「美里、よせ」

拓生が彼女を引き止める。

「凌は他人が近づくのを好まないんだ」

「そう?」

美里は首をかしげ、笑みを深める。

「それは残念。でも凌さん、どこかで見覚えがあるわね。私たち、どこかでお会いしませんでした?」

凌の瞳が一瞬揺らいだが、すぐに平静を取り戻した。

「いいえ、美里様の人違いでしょう」

「そうかしら?」

美里は思案深げに彼を見つめる。

「でも、どこかで見た気がするのだけど……」

「いい加減にして、美里」

私は言葉を遮る。

「彼は私の護衛よ。あなたの玩具じゃない」

美里は唇を尖らせると、くるりと向き直り、拓生の腕に絡みついた。

「お姉様はいつも怖いのね。お兄様、お茶にしましょう」

二人は庭園を去っていく。

私はその場に立ち尽くし、美里の背中を見送って、思わず鼻で笑った。

彼女はいつもそうだ。私の周りの人間なら、誰であれ奪い取ろうとする。

私は多忙を極め、朝から晩まで働き詰めだった。時折、凌が温かいお茶を運んできてくれる。

「お嬢様、そろそろ休憩なさってください」

彼はお茶を机に置く。

「まだ書類が片付いていないの」

私はこめかみを揉んだ。

「もう十八時間もぶっ通しです」

凌の声には珍しく、気遣う色が滲んでいた。

私は顔を上げ、彼を見た。少し意外だった。彼が自分から私を案じたのは、これが初めてだ。

「ありがとう」

私はティーカップを手に取る。

「あなたも早く休んで」

凌は頷き、背を向けて出て行った。

お茶を一口啜る。温かい液体が喉を滑り落ち、胃の中が温まる。

奇妙なことに、お茶を飲み干すと、軽い目眩を感じた。

疲れが溜まっているのだろう。

深く考えず、私は書類仕事に戻った。

翌朝、目が覚めると全身に力が入らなかった。

「お嬢様、顔色が優れません」

田中が水を差し出す。

「病院で診察を受けられた方が……」

「いいえ、昨夜よく眠れなかっただけよ」

私はコップを受け取る。

だが続く数日、症状は顕著になっていった——目眩、吐き気、倦怠感。

毎朝目覚めると、枕が冷や汗で濡れている。

「お嬢様、本当によろしいのですか?」

ドアの前に立つ凌の瞳には、憂色が浮かんでいる。

きっと美里が裏で何か小細工をしたせいで、こんなに苦しいのだと見当がついた。

「平気よ」

私は無理やり立ち上がる。

「今日は重要な会議があるの。欠席するわけにはいかないわ」

「しかし、お体の具合が……」

「大丈夫だと言ったでしょう」

私は彼の言葉を遮る。

「車を用意して」

凌は数秒沈黙したが、やがて頷いた。

「……はい」

しかし会議の最中、突然激しい目眩に襲われた。

「お嬢様?」

一人の老幹部が眉を寄せる。

「お加減が悪いのでは?」

「私は……」

テーブルに手をついて立ち上がろうとしたが、膝から力が抜け、体は制御を失って前方へと倒れ込んだ。

「お嬢様!」

凌が駆け寄り、私を受け止める。

私は彼の腕の中で意識を手放した。

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