第3章

目を覚ますと、私は病院のベッドの上にいた。

「お嬢様、やっとお目覚めですか」

田中がベッドの脇に座っている。

「医者の話では、過労に栄養失調が重なったとのことです」

ただの過労? 私は一瞬、呆気にとられた。

「会議は?」

「中止になりました」

田中は少し言い淀む。

「お嬢様、組織の連中が噂しております。お体の具合が悪く、もう任には堪えられないのではないかと……」

「分かったわ」

私は彼の言葉を遮る。

ドアが押し開けられ、凌が入ってきた。

「お嬢様、お加減はいかがですか」

彼がベッドのそばまで歩み寄る。その瞳には憂色が浮かんでいた。

「だいぶ良くなったわ」

私は彼を見つめる。

「助けてくれて、ありがとう」

「当然のことをしたまでです」

凌は頭を垂れる。

心配そうな彼の様子を見て、胸の奥にふと温かいものが込み上げてきた。

この冷徹な男も、人を気遣うことがあったのね。

目覚めてから三時間も経たないうちに、美里が私を見つけ出した。

「お姉様、お加減が優れないと伺って、心配しておりましたの」

彼女は私の向かいに腰を下ろす。その顔にはあどけない表情が張り付いている。

「少しお仕事を分担いたしましょうか?」

「結構よ」

私は書類を広げる。

「自分で処理できるわ」

「お姉様はいつも強がりでいらっしゃる」

美里はくすりと笑う。その首元で、銀のネックレスが照明を受けてきらりと光った。

そのネックレスを凝視した瞬間、心臓が激しく締め付けられた。

あのネックレスは、かつて母が最も愛した品だった。父が母のために手作りしたもので、世界にたった一つしかないのだと、母は言っていた。私が生まれた時、母はそれを私に譲ってくれたのだ。

だが今にして思えば、それは決して唯一無二などではなかったということだ。

父は、松本千代にも同じものを作ってやっていたのではないか。

何とも滑稽な話だ。

「まだ仕事があるの。下がってくれる?」私は単刀直入に告げる。

美里は不快そうに立ち上がった。

「ではお姉様、ごゆっくり静養なさってくださいね。失礼いたします」

夜になっても、やはり凌が私の服薬を見張りに来た。

忙殺されていると、私は時折薬を飲むのを忘れてしまうのだ。

「お嬢様、お薬の時間です」

彼は錠剤と水をテーブルに置く。

「医師からは、決まった時間に服用するようにと」

「ええ」

私は錠剤を受け取り、口に放り込んで水で流し込む。

私が薬を飲み下すのを見届けると、凌が不意に口を開いた。

「お嬢様、御身を大切になさってください」

「何?」

私は少し意外に思う。

「私のことを心配してくれているの?」

「貴女様は、私の主ですから」

凌は頭を垂れる。

「貴女様がご無事でこそ、私もまた在れるのです」

「それもそうね」

私は口元を緩めた。

「下がっていいわ」

凌が踵を返して部屋を出ていく。

その背中を見送りながら、私は自嘲気味に笑った。

たとえ狂犬であろうと、犬は犬だ。

犬とは忠誠を尽くす生き物。

己の主に牙を剥くことはない。

だが、私の体調は回復するどころか、悪化の一途をたどっていた。

毎朝目覚めると全身が酷く気怠く、突然の目眩に襲われることもあれば、吐き気を催すこともある。

だが、何度医師に診せても、返ってくる答えは「ただの過労」だけだった。

「お嬢様、本当にお仕事を続けられるおつもりですか?」

田中が心配そうに私を見つめる。

「お体の方が……」

「やらなければならないの」

私は机に手をついて立ち上がる。

「組織の連中は、私が倒れるのを今か今かと待っている。彼らに付け入る隙を与えるわけにはいかない」

「しかし……」

「しかしも何もないわ」

私は彼の言葉を遮った。

「今日の午後は重要な交渉がある。絶対に行かなければ」

田中は溜息をついた。

「承知いたしました」

今回の交渉は、神代組の向こう三年の資金繰りに関わる重要な案件だ。本来なら私が出向く必要などなく、田中に任せれば済む話だった。

だが、取引相手が妙な噂を耳にしたらしい。私が重病だと思い込み、この目で確認しない限り安心できないと言い出したのだ。

私は仕方なく、自ら出向くことにした。

午後三時、私は会議室で取引相手の代表と対面した。

「神代さん、今回の提携についてですが……」

相手の代表が口火を切る。

私は契約書を受け取り、目を通し始めた。

だが、文字が目の前で踊り狂い、内容が全く頭に入ってこない。目眩は激しさを増し、胃の底から不快なものが込み上げてくる。

「神代さん?」

相手の代表が眉をひそめた。

「大丈夫ですか? 顔色が優れませんが」

「私は……」

答えようとした矢先、強烈な目眩が私を襲った。

世界がぐるりと回転する。

――くそっ。

本当にただの過労なのか? この会議が終わったら、あの医者を徹底的に洗ってやる。

いや。

今は倒れるわけにはいかない。

交渉の席で気絶するなど、断じてあってはならないことだ。

「申し訳ない」

私は無理やり笑みを浮かべた。

「空調が少し効きすぎているようね。失礼、手洗いに立たせてもらうわ」

「お供いたしましょうか」

背後で凌が声をかける。その響きには気遣いが滲んでいた。

「いいえ、結構よ」

私は机に手をついて体を支え、立ち上がる。

「すぐに戻るわ」

個室を出て、私は壁にすがりつくようにして洗面所へと向かった。視界は霞み、足に力が入らない。一歩踏み出すたびに、まるで綿の上を歩いているような感覚に陥る。

洗面所のドアを押し開け、個室に駆け込んで鍵をかける。

蛇口を捻り、冷水を顔に叩きつける。だが効果はない。頭の回転は止まらず、足の震えも収まらない。

くそっ。

洗面台に手をついたその時、視界に手首の腕時計が入った。脳裏にある考えが閃く。

私は腕時計を叩きつけて文字盤のガラスを砕き、鋭利な破片を一つ摘み上げた。そして、それを左手の二の腕の内側に当て――迷わず力任せに切り裂いた。

瞬間、激痛が走る。

鮮血が噴き出し、白い洗面台に滴り落ちる様は、あまりにも鮮烈だった。

鋭い痛みが目眩をねじ伏せ、思考がクリアになっていく。

私はペーパータオルで傷口を押さえ、深く息を吸い込んだ。血が止まるのを待ち、袖を下ろして傷を隠す。

身なりを整え、ドアを開けて外へ出る。

「お嬢様」

凌がドアの外に立っていた。

「大丈夫ですか?」

「ええ」

私は彼を見据える。

「行きましょう」

個室に戻り、再び席に着く。契約書を手に取った。

「申し訳ない、お待たせしたわね。続きをやりましょう」

相手の代表はほっとしたように息をついた。

「ええ、では第三条項についてですが……」

交渉は続いた。

二時間後、ようやく話がまとまる。

「神代さん、良い取引ができました」

相手の代表が立ち上がり、手を差し出す。

「ええ、こちらこそ」

私はその手を握り返し、必死に笑顔を取り繕った。

客を見送った瞬間、張り詰めていた糸が切れた。力が抜け、体が後ろへと傾く。

「お嬢様!」

凌が駆け寄り、私の体を支えた。

「大丈夫よ」

私は彼を突き放し、壁に手をついて体勢を立て直す。

「車を回して。屋敷に帰るわ」

「はっ」

「お嬢様、その腕……」

不意に凌が声を上げた。

目を開けると、袖に血が滲んでいるのが見えた。

「不注意で切っただけよ」

私は淡々と言い放つ。

「大したことないわ」

凌は数秒沈黙し、それ以上は何も聞かなかった。

だが、私は見ていた。ハンドルを握る彼の手の関節が、白く浮き上がっているのを。

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