第3章
アパートに戻ったのは夜だった。廊下のセンサーライトが点滅を繰り返し、まるで私の揺らめく命を模しているかのようだった。
鍵を錠前に差し込んだ瞬間、胃に激しい痛みが走り、ドアに寄りかかって息を整えるしかなかった。
今日、病院で手続きを終えた後、医者は改めて末期胃癌の治療方針を強調したが、私はただ機械的に頷くだけで、もう治療を諦めることにしたとは伝えなかった。
ドアを開けると、狭いアパートはいつも通り整頓されていた。
再び胃痛が襲い、私はソファに身を縮こませた。体は空腹と痛みで満たされている。
ふと、柚子がかつて言った言葉を思い出す。
「眠子、自分のこと、ちゃんと大事にしなきゃダメだよ」
自分を大事にする、か。
重い足取りで小さなキッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。中はほとんど空っぽだった。豆腐一丁、納豆が半パック、そして萎びた人参が数本。すべて賞味期限が切れている。
最後に買い物をしたのは、もう一ヶ月以上も前のことだ。
コンビニで買ってきた野菜をまな板に置き、包丁を手に取って切り始める。不意に手首が滑り、刃先が指を掠めた。鮮血が青菜の上に滴り落ち、その目に刺さるような赤色に一瞬、意識が遠のく。
「邪魔だな……」
私は低く呟いた。
どういうわけか、包丁は野菜を切る動きから、傷痕のある自分の腕へと向きを変えていた。
刃先がそっと皮膚を滑る。慣れ親しんだ痛みが、私の呼吸を穏やかにしていく。
この痛みだけは、少なくとも私がコントロールできるものだった。
傷口から血が滲み出す。それをじっと見つめながら、自分でもこの行為がだんだん制御できなくなっていることに気づいていた。
これはもう、痛みに対応する唯一の方法、歪んだ自己慰撫となっていた。
『神宮さん、発作が起きたらきちんと薬を服用して、できるだけ一人にならないようにしてください』
精神科医の言葉が耳元で蘇る。
『ご家族の寄り添いは、あなたの病状に良い影響を与えます。どうか、ご親族ともっと交流してみてください』
医者は、家族ともっと一緒にいて、愛されていると感じることが、病状に良いと言った。
けれど。
私は流れ落ちる血を見つめながら、思う。
私に、家族はいない。
傷口を洗い流し、適当に包帯を巻く。もう夕食を準備する気力は残っていなかった。
胃痛と空腹が入り混じる中、私は畳の上に横になり、目を閉じる。意識が暗闇に吞み込まれるのに身を任せた。
どれくらい経っただろうか。けたたましいドアの呼び鈴が、私を昏睡から叩き起こした。
ドアスコープを覗くと、陽一の姿が見え、瞬時に覚醒した。
慌てて長袖のシャツを羽織って腕の傷を隠し、深呼吸をしてからドアを開ける。
陽一はドアの外に立っていた。スーツをきっちりと着こなし、眉間には深い皺が刻まれている。
その視線は私の乱れた髪と蒼白な顔色をなぞり、最後に私の手首で止まった。
「眠子、その手首は何だ」
彼の声は相変わらず冷淡で、よそよそしい。
私は無意識に袖口を引いたが、手遅れだった。彼はこちらから見えている僅かな傷痕に気づいてしまったのだ。
「お前はあの不良娘とつるんで、自分まで社会問題児にでもなるつもりか」陽一は明らかに柚子を指して、冷たく言い放った。
怒りが込み上げてきた。柚子は私にとって唯一の友人で、人生における数少ない光の一つだ。
彼女は、私の全ての暗闇や砕けた部分も含めて、ありのままの私を受け入れてくれる。
「柚子のことをそんなふうに言わないで」
私の声は怒りで震えた。
感情が制御できなくなり、私は陽一を突き飛ばそうとしたが、彼は私の手首を掴んだ。袖がずり落ち、隠していた幾筋もの傷痕が露わになる。
「その手首の傷は……」
陽一の声が、不意に不確かなものに変わった。
私は勢いよくその手を振り払い、彼の頬に乾いた音を立てて平手打ちを見舞った。
「出て行け!」
私はほとんど叫んでいた。
「私に触らないで! 今すぐ出て行け!」
全身が制御不能に震え始め、恐怖が潮のように私を呑み込んでいく。
陽一はそこに立ち尽くし、顔の表情は驚愕から次第に複雑な感情の入り混じったものへと変わっていった。
彼は何かを言いたげだったが、結局ただ背を向けて立ち去った。
ドアが閉まった瞬間、私はその場に滑り落ちるように座り込み、膝を抱きしめた。まるでそうでもしなければ、自分が粉々のガラス片になってしまいそうだった。
