第一章
「入れ」
神谷治世の声には、一切の温度がなかった。
私は病室の外で立ち尽くし、下腹部を強く抱きしめる――そこには、まだ神谷治世に告げていない小さな命が宿っている。
廊下の突き当たりに立つ彼が私に向ける眼差し。そこにあるのは、嫌悪だけだった。
「神谷治世……体調が悪いの……」
恐怖で声が震える。
「別の日にしてくれない? 今日は本当に……」
「平塚桂衣は待てない」
彼は私の言葉を遮り、嘲るように言い放つ。
「たかが骨髄の適合検査だろ、誰に向けての演技だ? 北園念。桂衣ちゃんを追い出して『神谷の妻』の座に居座った時は、ずいぶんと威勢がよかったじゃないか」
心臓が早鐘を打つ。結婚して三年、この男の目には、私など卑劣な略奪者にしか映っていないのだ。
「彼女を追い出してなんていないわ。あの時は……」
「いい加減にしろ!」
神谷治世は大股で歩み寄ると、私の手首を乱暴に掴み上げた。その力は恐ろしいほど強い。
「言い訳など聞きたくない。桂衣ちゃんの病状が悪化しているんだ。お前は唯一のレアな血液型適合者だ。これはお前が彼女に負っている借りだと思え」
「借りなんてない!」
私は顔を弾くように上げた。
「神谷治世、もし私が妊娠していると言ったら? 今は穿刺手術なんて受けられないと言ったら、どうするの?」
神谷治世の視線が、私の平らな腹部に落ちる。そして、鼻で笑った。
「妊娠だと? 北園念、桂衣ちゃんへのドナー提供から逃げるために、そんな嘘までつくのか」
彼はさらに一歩迫る。
「先月、生理が来たばかりだろう。お前が何を企んでいるか知らないとでも思ったか。子供をだしに俺を縛り付ける気か? それとも時間を稼いで、桂衣ちゃんを手術台の上で死なせるつもりか?」
「違う……」
絶望が喉まで込み上げ、私は必死に首を横に振る。
その時、看護師が慌てた様子で駆け出てきた。
「神谷様! 平塚さんがまた意識を失われました。すぐに適合検査を行わなければ、手遅れに……」
神谷治世の顔色が瞬時に蒼白になる。それは焦燥であり、恐れであり――私が一度として向けられたことのない、深い愛情だった。
彼はもう私を一瞥もしなかった。手を振り、命じる。
「連れて行け。本人の意思など関係ない、今日中に検査を終わらせるんだ」
「はっ」
二人のボディガードが進み出て、私を強引に抱え上げる。
「放して! 神谷治世! こんなのあんまりよ! 子供がいるの! 本当に、あなたの子供がいるのよ!」
必死に抵抗し、ボディガードの腕に爪を立てるが、彼らはびくともしない。
神谷治世は私に背を向け、ガラス越しに病床の女を見つめている。私の悲痛な叫びなど、彼の耳には届いていない。
私は採血室へと引きずり込まれた。重々しい音と共に扉が閉ざされ、神谷治世の背中を遮断する。
「神谷奥様、協力的にお願いしますよ」
医師が穿刺針を手に迫る。
「神谷様のご命令です。抵抗されるようなら、鎮静剤を打てと」
私は部屋の隅に縮こまり、両手で腹を庇って震えていた。ぎらりと光る針先を見て、恐怖が極限に達する。
「嫌……お願い、骨髄穿刺はやめて。採血だけにしてくれない? 切迫流産の兆候があるの、刺激を与えちゃいけないの……」
子供を守るため、私は全ての尊厳をかなぐり捨てた。
ふいに扉が開き、秘書が入ってきて無慈悲な命令を告げる。
「神谷様より伝言です。検査はフルコースで行えと。平塚さんの容体には一刻の猶予も許されない。それと、奥様の仰る妊娠については――」
秘書は無表情に続けた。
「『妄想癖の発作だ、取り合う必要はない』とのことです」
妄想癖。
そうか。彼の中で私は、性根の腐った女であるだけでなく、嘘八百を並べ立てる狂人だったというわけか。
「始めろ」
看護師たちが押し寄せ、私の手足を押さえつける。手術台の上に磔にされ、身動き一つ取れなくなる。
「神谷治世――ッ!」
私は絶望の淵で、最期の叫びを上げた。
