恩人を十年見誤り、彼は最愛の人をその手で殺めた

恩人を十年見誤り、彼は最愛の人をその手で殺めた

渡り雨 · 完結 · 18.2k 文字

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紹介

彼の高嶺の花を救うため、彼は妊娠している私を自らの手で手術台に押さえつけ、骨髄を抜き取った。

私は泣きながら彼に懇願した。「神谷治世、私には子供がいるの、お願いだから見逃して……」

しかし彼は、嫌悪に満ちた目で言い放った。「北園念、桂衣ちゃんへの適合を逃れるために、そんな嘘までつくのか? やれ!」

手術室が血の海と化し、まだ形にもなっていない子供が血の塊となって流れ出た時、彼はようやく狼狽えた。

後に、十年前の火事で自分を救ったのが実は私だったと知った時、彼は私の遺骨を抱き、手術室の外で三日三晩ひざまずき続けた。

チャプター 1

「入れ」

 神谷治世の声には、一切の温度がなかった。

 私は病室の外で立ち尽くし、下腹部を強く抱きしめる――そこには、まだ神谷治世に告げていない小さな命が宿っている。

 廊下の突き当たりに立つ彼が私に向ける眼差し。そこにあるのは、嫌悪だけだった。

「神谷治世……体調が悪いの……」

 恐怖で声が震える。

「別の日にしてくれない? 今日は本当に……」

「平塚桂衣は待てない」

 彼は私の言葉を遮り、嘲るように言い放つ。

「たかが骨髄の適合検査だろ、誰に向けての演技だ? 北園念。桂衣ちゃんを追い出して『神谷の妻』の座に居座った時は、ずいぶんと威勢がよかったじゃないか」

 心臓が早鐘を打つ。結婚して三年、この男の目には、私など卑劣な略奪者にしか映っていないのだ。

「彼女を追い出してなんていないわ。あの時は……」

「いい加減にしろ!」

 神谷治世は大股で歩み寄ると、私の手首を乱暴に掴み上げた。その力は恐ろしいほど強い。

「言い訳など聞きたくない。桂衣ちゃんの病状が悪化しているんだ。お前は唯一のレアな血液型適合者だ。これはお前が彼女に負っている借りだと思え」

「借りなんてない!」

 私は顔を弾くように上げた。

「神谷治世、もし私が妊娠していると言ったら? 今は穿刺手術なんて受けられないと言ったら、どうするの?」

 神谷治世の視線が、私の平らな腹部に落ちる。そして、鼻で笑った。

「妊娠だと? 北園念、桂衣ちゃんへのドナー提供から逃げるために、そんな嘘までつくのか」

 彼はさらに一歩迫る。

「先月、生理が来たばかりだろう。お前が何を企んでいるか知らないとでも思ったか。子供をだしに俺を縛り付ける気か? それとも時間を稼いで、桂衣ちゃんを手術台の上で死なせるつもりか?」

「違う……」

 絶望が喉まで込み上げ、私は必死に首を横に振る。

 その時、看護師が慌てた様子で駆け出てきた。

「神谷様! 平塚さんがまた意識を失われました。すぐに適合検査を行わなければ、手遅れに……」

 神谷治世の顔色が瞬時に蒼白になる。それは焦燥であり、恐れであり――私が一度として向けられたことのない、深い愛情だった。

 彼はもう私を一瞥もしなかった。手を振り、命じる。

「連れて行け。本人の意思など関係ない、今日中に検査を終わらせるんだ」

「はっ」

 二人のボディガードが進み出て、私を強引に抱え上げる。

「放して! 神谷治世! こんなのあんまりよ! 子供がいるの! 本当に、あなたの子供がいるのよ!」

 必死に抵抗し、ボディガードの腕に爪を立てるが、彼らはびくともしない。

 神谷治世は私に背を向け、ガラス越しに病床の女を見つめている。私の悲痛な叫びなど、彼の耳には届いていない。

 私は採血室へと引きずり込まれた。重々しい音と共に扉が閉ざされ、神谷治世の背中を遮断する。

「神谷奥様、協力的にお願いしますよ」

 医師が穿刺針を手に迫る。

「神谷様のご命令です。抵抗されるようなら、鎮静剤を打てと」

 私は部屋の隅に縮こまり、両手で腹を庇って震えていた。ぎらりと光る針先を見て、恐怖が極限に達する。

「嫌……お願い、骨髄穿刺はやめて。採血だけにしてくれない? 切迫流産の兆候があるの、刺激を与えちゃいけないの……」

 子供を守るため、私は全ての尊厳をかなぐり捨てた。

 ふいに扉が開き、秘書が入ってきて無慈悲な命令を告げる。

「神谷様より伝言です。検査はフルコースで行えと。平塚さんの容体には一刻の猶予も許されない。それと、奥様の仰る妊娠については――」

 秘書は無表情に続けた。

「『妄想癖の発作だ、取り合う必要はない』とのことです」

 妄想癖。

 そうか。彼の中で私は、性根の腐った女であるだけでなく、嘘八百を並べ立てる狂人だったというわけか。

「始めろ」

 看護師たちが押し寄せ、私の手足を押さえつける。手術台の上に磔にされ、身動き一つ取れなくなる。

「神谷治世――ッ!」

 私は絶望の淵で、最期の叫びを上げた。

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