第二章

 私はもう、抵抗するのをやめた。天井の白々しい蛍光灯を凝視する私の瞳から、光が少しずつ、確実に失われていく。

 穿刺針が皮膚を突き破り、骨髄へと侵入する。じわりと滲んだ冷や汗が、無菌シーツをぐっしょりと濡らしていった。

 だが、肉体の激痛よりもさらに耐え難いのは、下腹部から這い上がってくる重苦しい墜落感だった。

「いや……やめて……お願い……」

 唇を噛み締め、血が滲む。微かな声で、私は懇願した。

「赤ちゃん……私の、赤ちゃんが……」

「押さえろ! 暴れさせるな!」

 医師が怒鳴りつける。

 傍らに立つ神谷治世の特別補佐が、腕時計へと視線を落とした。

「手際よく頼む。神谷様が外で結果をお待ちだ」

 その時、モニターが甲高い警告音を鳴り響かせた。

「血圧、急速に低下!」

「心拍数上昇!」

「まずい、大量出血だ!」

 看護師の悲鳴が上がる。

 私はただ、下半身が熱くなるのを感じていた。どっと何かが溢れ出し、シーツを鮮血で染め上げていく。

「何が起きた?」

 特佐の顔色が変わった。

「流産だ! 流産による大量出血だ!」

 執刀医が吼える。

「彼女は本当に妊娠していたんだ! 強烈な刺激による急性流産だ! 急いで止血しろ! 早く!」

 意識が遠のく中、私は首を巡らせ、ベッドの端から滴り落ちる血を見つめた。

 あれは、三年も待ち望んだ我が子。この冷え切った結婚生活を繋ぎ止める、唯一の希望だったもの。

 それが今、流れ出していく。

「神谷……治世……」

 その名を譫言のように呟くと、目尻から一筋、血の混じった涙が滑り落ちた。

 バンッ! と手術室の扉が荒々しく押し開かれた。飛び込んできた神谷治世は、床一面に広がる鮮血を目にし、瞳孔を収縮させた。

「どういうことだ? 俺は適合検査をしろと命じたはずだ。誰がこんな真似を許した!」

 神谷治世の声は、微かに震えていた。

 医師が答える。

「神谷様……奥様は……本当に妊娠されていました。おそらく二ヶ月です。先ほどの強制的な穿刺に加え、激しい情緒的動揺が重なり……その、流産による大出血を……」

 神谷治世はその場に立ち尽くし、私の顔を凝視した。

 いつも彼の背中を追いかけ、黙って耐え忍んでいた女が、今、血塗れの海に沈んでいる。

「子供は……駄目だったのか?」

 神谷治世の声は、酷く掠れていた。

「助かりませんでした」

 医師は項垂れた。

「それに、奥様の子宮は深刻な損傷を受けており、今後……再び子を宿すことは極めて困難かと」

 神谷治世の足取りがよろめいた。

 手術台へと歩み寄り、私の頬に触れようと手を伸ばしかけて――止まる。指先が、赤く染まっていたからだ。

 あれは、私たちの子供の血だ。

「北園念……」

 彼は私の名を呼んだ。

 私はゆっくりと瞼を持ち上げた。

 その瞳は空洞のように虚ろで、もう何も映してはいなかった。

「神谷治世」

 私の声は、羽のように軽い。

「これで、満足しましたか?」

 神谷治世は心臓を鷲掴みにされたような痛みを覚え、反射的に弁解した。

「俺は知らなかった……なぜ、以前に検査報告書を見せなかったんだ? お前がもっと早く証拠を出していれば……」

「証拠?」

 私は口の端を歪めて嗤った。

「私の言葉なんて、あなたにとっては一度だって証拠になんかならなかった。いつだって、ただの虚言だったでしょう」

「今は喋るな、まずは止血だ!」

 神谷治世が叫ぶ。

「おい医師! 何を呆けている! 人を救え! もし彼女の身に何かあれば、貴様らもこの病院も道連れにしてやる!」

「もう、いいのです」

 私は目を閉じ、涙を流した。

「神谷治世。この腎臓も、この身体を流れる血も、そしてこの命も、すべてあなたに差し上げます。あなたの愛する、平塚桂衣のために」

「ふざけたことを言うな!」

 神谷治世が激昂する。

「これからは……」

 消え入りそうな声で、私は告げる。

「もう、あなたへの借りはなくなりました。かつての命の恩も、この三年の夫婦としての情も……たった今、あの子と共に、完全に死に絶えましたから」

 その瞬間、何かが音を立てて完全に剥離した。

「神谷様! 平塚さんの容態が急変しました、至急輸血が必要です!」

 入り口から切迫した声が響く。

 神谷治世は振り返り、看護師を見、そして血の海に沈む私を見た。それは、残酷な二択だった。

 私は彼を見ることなく、ただ静かにその時を待つ。

 数秒の沈黙の後、神谷治世はギリと奥歯を噛み締めた。

「……血を抜け。死なない程度であれば、足りるまでいくらでも抜け」

 医師が愕然とする。

「神谷様、正気ですか! 奥様は流産したばかりで、体力が極限まで低下しています。この状態で採血などすれば……」

「桂衣を救えと言ったんだ!」

 神谷治世は咆哮した。もう二度と私の方を見ようとはせず、逃げるように手術室を後にした。

 私は、身体から血液が吸い上げられていく感覚を味わっていた。

 涙は出ない。呻き声も上げない。

 ただ、真剣に思考を巡らせていた。

 死ぬことと、生きること。果たしてどちらの方が、より痛苦に満ちているのだろうか、と。

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