第1章
「答えて! 歩美! 受けてあげて!」
人だかりが輪をつくり、ピンクの風船が浮かぶその中心で、村木悠介――私が三年追い続けた男の子が、金髪碧眼のお嬢さまを見つめて微笑んでいた。
歩美は照れたふりで口元を押さえる。だけど目尻と眉の端には、勝者の傲慢がにじんでいる。
爪が掌に食い込む。周囲から飛んでくる視線は、露骨な悪意を含んで私の肌を刺した。
悠介の後ろをついて回る居候の女が、ここで泣いて崩れる――その瞬間を、みんな待っている。
私は無表情のまま手をほどき、踵を返した。騒がしい広場を、振り向きもせずに出ていく。
けれど花野家の玄関扉を押し開けたとき、私は知ることになる。もっと馬鹿げた光景が、この先にあるのだと。
「まあ、誰かと思ったら。うちの大スターがご帰宅ね」
花野夫人がソファに座ったまま、冷笑を貼りつけて私を見た。
「今日も盛大に恥さらしたんでしょ? ほら、これ見てみなさいよ」
差し出されたスマホには、Instagramで拡散されている短尺動画。噴水広場を映す画面の隅――わざわざ赤い丸で囲われた、私の顔。悠介がバラを差し出す瞬間、私は影の中に立ち尽くし、野良犬みたいな目をしている。コメントは秒単位で増えていき、並ぶのは「身のほど知らず」への嘲笑ばかり。
「ほんっと理解できないわ。どうして少しは私の顔を立てられないの?」花野夫人は唾を吐くように言った。
「花野家が情けをかけてあんたを置いてやって、毎月の預かりの補助金だって家計の足しにしてなかったら、あんた今ごろ、あの救いようのない酒浸りの父親と同じで、ドブで野垂れ死にしてたわよ。骨の髄まで下品な血が流れてるくせに、悠介みたいな階層の男の子に縋りつこうだなんて?」
歪んだ顔を見ているだけで、胃の奥がむかむかした。
三年。ここで洗濯と料理をして、ねちねちと心を削られ、学校では悠介に自尊心を擦り減らされても耐えた。たったひとかけらでも「必要とされている」気がしたかったから。
「……もう、いい」
私は勢いよくローテーブルの湯呑みを掴み、暖炉の脇へ叩きつけた。
ガシャン、と乾いた音。
リビングが一瞬で凍りつく。花野夫人がソファから跳ね上がった。
「頭おかしいんじゃないの!? この恩知らずの――!」
私は静かに、まっすぐ目を見返した。
「出ていく。もう、あなたたちにはうんざり」
「出ていく?」花野夫人は一拍置いてから、腹を抱える勢いで笑った。
「どこへ? 十七の未成年が、財布から渋沢栄一一枚も出せないくせに。ここを出たら、あんたに残ってるのは街に立つくらいでしょ。誰が拾ってくれるのよ、そんなゴミ!」
罵声は聞き流し、私はそのまま屋根裏部屋へ駆け上がった。鍵を掛け、背中を扉に預けたまま、ずるずると床へ座り込む。疲労が全身を引きずり、意識は闇へ沈んでいった。
夢の中で、私は未来の自分を見た。
悠介への歪んだ執着のせいで勉強を台無しにし、花野家から追い出される。行き場を失って、暴力と酒の匂いが染みついた生まれ育った家へ戻るしかなくなり、そのまま底へ底へと沈んでいく。
夢の最後。私は安い団地の一室で、ひとりきりで死んでいた。
墓地には、粗末な棺の前に立つ背の高い痩せた影がひとつだけ。
弘人。
黒いパーカーばかり着て、教室のいちばん後ろに座り、ほとんど口を開かない男の子。
「――はっ」
私は跳ね起きた。木の板張りのベッドの上で、息を呑むほど大きく息を吸い込む。
胸はまだ痛い。けれど目だけは、いままでになく澄んでいた。
もう誰かの踏み台にはならない。あの結末を、現実にだけはしない。
深夜。震える手でスマホの画面を点ける。Instagramの通知が雪崩みたいに積み上がっていたけれど、無視して連絡先へ指を滑らせた。
極端に短い名前のところで、親指が長いこと止まる。
「弘人」
悠介の取り巻きに冷水を浴びせられたときも、更衣室で孤立させられたときも、図書館で声を殺して泣いたときも――何も言わず、ただ三度、ティッシュを差し出してくれた男の子。
私は下唇を噛みしめたまま、発信ボタンを押せずにいた。
