第3章
十五分後、雨の帳を切り裂くように一台の四駆が滑り込んできた。
ドアが開く。弘人は大股で雨の中へ踏み出し、寒風に晒されて紫色になった私の唇と、足元の壊れかけたスーツケースを見た瞬間、瞳の奥がすっと沈んだ。
何があったのかは訊かない。ただ無言で上着を脱ぎ、迷いなく私の肩から全身へ、隙間がないほどきっちりと包み込む。
「乗れ」
車内は暖房がよく利いていた。
私は助手席で小さく身を丸める。弘人は片手でハンドルを握り、ワイパーの往復をまっすぐ見据えたまま、不意に沈黙を割った。
「好きなだけ居ればいい」
「余計なことは気にするな」
弘人のマンションは都心にあった。部屋の調度は本人と同じで、黒・白・グレーの三色だけ。塵ひとつなく整っているのに、不思議と胸の奥が落ち着く。
張り詰めていた神経が緩んだ途端、寒気が一気に私を飲み込んだ。
午前二時。前触れもなく高熱がきた。朦朧とする意識の中、まるで炉の中に放り込まれたみたいに身体は熱いのに、額だけはずっと、ひやりとしたままだった。
薄く目を開ける。枕元の淡いスタンドの光の中、弘人がベッド脇の床に座り、冷たいタオルで私の額と首筋を丁寧に拭いているのが見えた。
その一瞬、寡黙なこの男の子の目に、かすかな痛みと慈しみが走るのを捉えた。
翌朝、かすかな足音で目が覚めた。上体を起こしてみると、私は柔らかな男物の清潔なコットンのパジャマに着替えさせられていた。
ナイトテーブルにはぬるい水の入ったコップとタイレノールが二錠、それからメモが一枚。
「ちゃんと休め。全部、俺がやる」
スリッパを引きずって客間を出る。オープンキッチンで水を汲もうと俯いたとき、ふとアイランドの横のゴミ箱が目に入った。使い終わった冷却シート、アルコール綿、取り替えた冷湿布用のタオルが山のように詰まっている。
顔を上げると、弘人が服のままリビングのソファに身体を縮めていた。彼には少し窮屈そうなそのソファで。水を注ぐ音に反応して、彼はすぐ目を開け、眉をわずかに寄せる。徹夜明けの掠れた声で言った。
「……少しは楽になったか?」
鼻の奥がつんと痛む。
「弘人……どうして、こんなに優しくするの? 今まで、学校でもほとんど話したことなかったのに……」
弘人はソファから立ち上がり、私まであと一歩のところで止まった。
「高一の冬、覚えてるか」低い声が落ちる。
「大雪で道が塞がった日。お前、学校の図書館で泣きながらAP微積の宿題してた」
息が止まった。
悠介が、あの取り巻きの前で私の弁当箱を床に叩き落として、「犬みたいに付きまとうな」と吐き捨てた日だ。
弘人は私をまっすぐ見て、続ける。
「泣きながら書いてた。涙で下書き用紙が滲んで、数字もほとんど見えないのに」
「でも、止めなかった。手の甲で適当に拭って……一文字ずつ、あのプリント全部、書き切った」
一拍。喉仏が小さく上下する。
「そのとき、俺は何列か向こうの棚の陰から見てた」
「……こいつは、骨の芯が、俺が見た誰より強いんだって」
「私、全然強くない……」
涙がこぼれ落ちる。首を振るたび、視界がにじんだ。
「見てもくれない人を追いかけて、搾り取ることしか考えてない養父母に媚びて……私、ほんと、笑いものみたいに生きてきた……」
弘人が一歩、距離を詰めた。伸ばされた手。温かい指の腹が、頬を伝う涙をそっとぬぐう。
「俺には、そう見えない」
「好美、お前は最初から笑いものじゃない」
空気が、ふっと形を変えた。心臓が一拍、抜ける。
その瞬間。
「ドン、ドン、ドン!」
玄関が叩き潰されそうな勢いで鳴り、続いて、花野奥さんの突き刺すような声が響いた。
「好美! 出てきなさい!」
艶めいた気配は、一瞬で粉々に砕け散った。
弘人の目が一気に冷える。彼は私を背に庇い、玄関へ歩いてドアを開けた。
外に立っていたのは、怒りで顔を歪めた花野奥さんだけじゃない。児童保護サービス局の上級ソーシャルワーカーもいた。
「この恥知らずの娼婦が!」男物のパジャマを着た私を見て、養母が吠えた。
「未成年のくせに男と同居して! 花野家がコミュニティ教会で築いてきた評判を潰す気なの?! 早坂さん、見ましたよね! この子はもう完全に堕ちたんです!」
弘人は一歩も退かなかった。声は氷のように冷たく、温度がない。
「花野奥さん。宮野法律事務所の私選弁護士に連絡済みです」
「このまま俺の住居で言葉の暴力を続けるなら、未成年への三年にわたる精神的虐待と、公的扶助の不正受給について、ただちに提訴します」
花野奥さんは首を絞められた鴨みたいに声を詰まらせ、顔色が青から白へと揺れた。
ソーシャルワーカーの早坂女士は身分証を提示し、室内を確認した。私が客室で一人で寝ていたこと、弘人はリビングで寝ていたことを確かめ、さらに弘人の身分証も確認したうえで、記録簿を閉じる。
「法的に問題ありません」早坂女士は冷えた声で花野奥さんに告げた。
「正式な監護権変更の審問が行われるまで、本人の意思でここに滞在できます」
味方にならないと分かるや、花野奥さんは忌々しげに悪態を吐いた。去り際、私を睨みつける。
「青二才が味方したくらいでいい気になるんじゃないよ! 保釈されたばかりの酒浸りの父親が金の匂い嗅ぎつけて来たら、どこに逃げるつもりだい!」
ドアが、バンと閉まった。
私は壁伝いにずるずると座り込み、膝を抱えて崩れるように泣いた。
次の瞬間、弘人がしゃがみこみ、力いっぱい私を抱きしめた。何度も、何度も、同じ言葉を繰り返す。
「大丈夫だ。俺がいる」
「……約束する。全部、大丈夫だ」
……
――そうして私が息を吹き返しはじめた頃、さくら高校の廊下には、どこか妙な空気が漂っていた。
水曜の午後。悠介は化学の授業で、三日連続で空いたままの席を睨みつけ、苛立たしげにペンをくるくる回していた。私と同じ班だった女子を捕まえて行方を訊いたが、返ってきたのは戸惑った首振りだけ。
当たり前だ。私は学校で、悠介を追いかける以外の居場所を作ってこなかった。
放課後の廊下で、悠介は偶然、用務員の村野の爺さんのぼやきを耳にした。
「……ああ、あの、いつもお前にコーヒー持ってきてた黒髪の子だよ。週末、大雨の中でさ。スーツケース引きずって、花野の家から追い出されたって――」
悠介の足が、ぴたりと止まる。
手にしていたバスケットボールが「ドン」とロッカーに当たり、静まり返った廊下に、やけに耳障りな音だけが響いた。
