第1章

目が覚めた瞬間、すべてが間違っている、と直感した。

見慣れたワンルームの天井ではなく、そこには豪奢なシャンデリアが輝いていた。飛び起きると、そこはまるで映画のセットのようなリビングの真ん中で、私は自分の目を疑った。

床まで届く大きな窓から柔らかな陽光が差し込み、磨き上げられた大理石の床や、いかにも値の張りそうな輸入家具をきらきらと照らし出している。

ふと、自分の姿に気づく。上品なシルクのルームウェアに、左手の薬指には生涯かけても買えそうにない大粒のダイヤモンドの指輪。

『ようこそ、『継母の影』の世界へ、川島薫子様』

突如、無機質な声が直接脳内に響き渡り、私は思わず悲鳴を上げかけた。

「だ、誰よっ」

『私はシステムです。あなたは今、ベストセラー短編小説『継母の影』の世界に転移し、作中の登場人物、悪役継母となりました』

悪役継母? この私が?

『あなたはキャラクター設定を厳守し、悪役継母の役を完璧に演じなければなりません。設定から逸脱した場合、その結末は死、あるいは元の世界への強制送還となります。もっとも、元の世界でのあなたの身体は既に火葬されているため、この結末もまた死を意味しますが』

はぁっ!?

なんでそうやってすぐ死で脅してくるわけ!

けれど、その脅しは効果てきめんだった。私は確かに怖気づいていた。

必死に、読んだことのあるその小説の内容を記憶の底から引っ張り出す。

確か『継母の影』は、一人の少年が意地悪な継母に虐げられ、徐々に心を歪ませ、最終的に反社会的な人格へと変貌してしまうという、救いのない物語だ。

そして、その哀れな少年こそが、川島亮一。

「その……川島亮一はどこにいるの?」

おそるおそる尋ねる。

「奥様、亮一坊ちゃまは既にお目覚めになり、ダイニングでお待ちでございます」

いつの間に現れたのか、上品な佇まいの家政婦が廊下の影から現れ、恭しく答えた。

家政婦に案内されてダイニングへ向かうと、長いテーブルの端に、五歳くらいの小さな男の子がぽつんと座っていた。小さな背中を丸め、こくこくと牛乳を飲んでいる。

こちらの気配に気づいたのか、彼はびくりと肩を震わせた。子犬のようにくりくりとした黒い瞳が、怯えと警戒を滲ませて私をじっと見つめている。

彼が川島亮一。未来の極悪人。

そして私は、彼の心を歪ませる悪役継母、川島薫子。

再び、システムの無機質な声が響いた。

『覚えておきなさい。この子が将来、人格を歪ませる主な原因は、継母であるあなたの感情的な冷遇と、執拗な心理的虐待にあります』

心臓が、どくんと嫌な音を立てた。

原作通りなら、夫である川島正臣がほとんど家に帰ってこないのをいいことに、私は優しい継母の仮面を剥ぎ取り、あの手この手でこの幼い少年をいびり抜くことになる。

長期にわたる精神的な虐待が、彼の心を蝕み、疑り深く歪んだ人格を形成させてしまうのだ。

つまり、今、私がやるべきことは、彼を虐待し続けること。

……でも、その『虐待』の方法は、どうやら私に委ねられているみたいね!

私はつかつかと川島亮一の元へ歩み寄り、彼が持っていた牛乳のカップをひったくった。

「これをゴーヤジュースに替えてちょうだい。苦ければ苦いほどいいわ」

私は家政婦にそう命じた。

亮一は小さな顔を憤りに歪ませて私を睨みつけたが、何も言い返すことはできない。ただ俯いて唇を固く結び、小さな手で膝の上のナプキンをくしゃくしゃに握りしめている。

ほどなくして運ばれてきた、見るからに青臭い緑色の液体を、私は彼の目の前に突きつけた。

「さあ、全部飲み干しなさい。一滴でも残すのは許さないわよ」

小さな眉間に深い皺を寄せ、必死にその緑色の液体を飲み下していく亮一の姿を見て、私は自分の悪役っぷりに内心でガッツポーズをした。

私って、なんて才能のある悪役継母なのかしら!

なんとかジュースを飲み干した亮一は、黙って椅子から降り、幼稚園へ行く準備を始めた。その姿を眺めていて、私は彼が着ている服が、この豪邸にはまったく不釣り合いな、安っぽくてサイズの合わないものであることに気がついた。

システムによれば、原作の私はわざとみすぼらしい服を着せることで、彼の自尊心を傷つけていたらしい。

「待ちなさい」

私は亮一を呼び止めると、ウォークインクローゼットから小さなスーツと蝶ネクタイのセットを取り出した。これは夫の川島正臣が息子のために用意したものだが、原作の私は一度も着せたことがなかったという。

「これを着て幼稚園に行きなさい」

「……どうして?」

亮一が訝しげに問いかける。

「決まってるじゃない。私が意地悪だからよ!」

私はわざとらしく口の端を吊り上げてみせた。

「あなたがそんなにお洒落をしたら、きっと他の子たちが嫉妬して、あなたを仲間外れにするでしょうからね。楽しみだわ」

システムは沈黙している。どうやらこの理屈はセーフらしい。

着替えを終えた亮一の頬に、私はちゅっとわざとらしくキスをした。

「早くママに『いってきます』を言いなさい。さもないと、幼稚園の門の前で待ち伏せして、あなたがおねしょする夢を見たって言いふらしてやるから!」

亮一は目をまん丸くして、私の突拍子もない「脅し」が信じられないといった顔をしている。

この半年、私は彼に徹底して嫌われているはずだ。キスをされ、ママと呼べと強要されるなんて、彼の逆鱗に触れるどころか、その上でタップダンスを踊るようなものだろう。

それでも彼は、最後まで意地を張って「いってきます」を口にすることはなかった。

亮一を見送った後、私は改めて自分の現状整理に取り掛かった。

夫の川島正臣は川島グループの社長で、ほとんど家に寄り付かず、顔を見るのは十日に一度か、下手をすれば半月に一度。私と結婚したのは、息子の亮一の世話をさせるため。その代わり、毎月三千万円もの生活費が私の口座に振り込まれる。

「ねえシステム。この悪役キャラ、いつまで続ければいいの?」

『川島亮一が大学入試に臨むまでです。原作において、あなたはその時、彼の志望校の願書を改竄し、彼が留学先で一連の闇の事件に巻き込まれる直接的な原因を作ります』

大学入試まで!? あと十数年も悪役を演じ続けろって言うの?

私は深いため息をつき、とりあえずこの莫大なストレスを解消するため、銀座へ買い物に出かけることに決めた。

悪役を演じるのだって、楽じゃないんだから!

さあ、ショッピングの時間よ!

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