第2章

プライベート用のノートに、私は『破滅フラグ回避マニュアル』と大きく書き記した。これから絶対に避けるべき行動リストだ。

一、レストランで紅茶を『うっかり』ぶちまける(予定日:四月十五日)

二、更衣室で彼女の体操服を隠す(予定日:四月二十二日)

三、文化祭で彼女のクラスの展示を破壊する(予定日:九月)

四、彼女と教師が不適切な関係にあると噂を流す(予定日:十一月)

五、クリスマスパーティーで罠に嵌める(予定日:十二月二十四日)

ペンのキャップを噛みながら、私はこの『脚本』を睨みつける。こんな悪辣なこと、本当に私がやるっていうの?

『お、運命に抗う気か。面白い』

『でも無駄なあがきでしょ。物語の筋書きはもう決まってるんだから、あとは予定通り進むだけ』

『悪役令嬢が早速ルート逸脱かよ。脚本家さん涙目だな、かわいそー』

これらの弾幕——いいえ、『視聴者コメント』と呼ぶべきかしら——が、今も私の視界の端を流れていく。

私を応援してくれるコメントもあれば、どうせ結末は変えられないと高を括っているものもある。

「見てなさい」

私は低く呟き、ノートをパタンと閉じた。

青藤学園、高等部専用レストラン。

クリスタルのシャンデリアが煌めき、白いリネンが敷かれたテーブルがいくつも並んでいる。私は窓際の、校庭を一望できる席に座っていた。

『脚本』によれば、今日が最初のターニングポイント。私が森川由紀に『うっかり』紅茶をぶっかける、運命の日だ。

特待生はレストランのメニューは頼めないけれど、お弁当の持ち込みは許可されている。森川由紀がお弁当箱を手に隅の特待生エリアへ向かおうとした、その時。数人の上級生が彼女の前に立ちはだかった。

「この席、私たちが使うから」

月花の銀色の徽章をつけた女子生徒が、傲慢に言い放つ。

「でも、ここは特待生用のエリアで……」

森川由紀の声はか細く、消え入りそうだ。

「だから何?私たちがここに座っちゃいけないとでも言いたいの?」

私はティーカップをソーサーに戻し、すっと立ち上がった。脚本通りなら、この機に乗じて近づき、わざとらしく転んで由紀に紅茶を浴びせるはず。でも……。

「森川さん」

私が声をかけると、その場にいた全員の視線が一斉にこちらへ突き刺さった。

「私の席、空いてるわよ。よかったら一緒にランチでもどうかしら?」

『は?プロット変更!?マジでシナリオ変えやがった!なんでそんなことできんだよ!』

『すまん、今来た。これって原作者がテコ入れした感じ?』

『悪役令嬢がヒロインをランチに!?どういう展開だよw』

レストランが一瞬、水を打ったように静まり返る。

星花の白銀涼華が、特待生をランチに誘うなんて。青藤学園始まって以来の、前代未聞の出来事だ。

森川さんが目を丸くする。しばらく躊躇っていたけれど、やがておずおずと私のテーブルへ歩み寄ってきた。

「ありがとうございます、白銀さん。でも、私なんかが……」

「座ってちょうだい」私は微笑みかける。「ちょうど先週の微積分の課題について、学年一位のあなたに少し教えてもらいたいことがあったの」

これなら、理由として十分でしょう。

森川さんはためらいがちに席に着くと、質素なお弁当箱の蓋を開けた。それと比べると、私の目の前にある豪勢なフランス料理は、あまりにも場違いに見える。

しばしの沈黙の後、私は自分のプレートを彼女の方へ少し押しやった。

「これ、味見してみる?お口に合うかわからないけれど」

その言葉に、森川さんはきゅっと唇を結んで俯いてしまった。

隣のテーブルから、くすくすという嘲笑が聞こえてくる。

「そうよ、特待生なんかにフランス料理の味なんてわかるわけないじゃない」

「食べさせてあげるだけ無駄ですわ」

私はその声の主たちを冷たい視線で一瞥して黙らせると、森川さんに向き直って悪戯っぽく囁いた。

「だってこれ、正直に言って美味しくないの。見栄えだけで選んじゃったから、失敗」

森川さんは呆然と私を見つめている。私が本気で言っているとは、信じられないのだろう。

『原作設定ガン無視じゃねーか!』

『いや、これはもっとデカい罠の前フリか?』

『いや、でもあの目は嘘をついてるようには見えねえぞ』

ランチが終わる頃、森川さんが深々と頭を下げた。

「お誘いいただき、ありがとうございました。とても、楽しいお昼休みでした」

「森川さん、涼華と呼んでちょうだい」

驚く彼女に、私は畳み掛ける。

「もし迷惑でなければ、明日も一緒にランチしないかしら?」

「涼華、あなた正気?」

更衣室で、親友の御堂真子が声を潜めて問い詰めてきた。

「どうしてあんなガリ勉の特待生と食事なんてするの?もう学校中がその話で持ちきりよ!」

「何か問題でも?私はただ、『特待生』様がどんな人間なのか、知りたいだけよ」

「知るですって?なんでそんな必要が?」

私は振り返り、真子の耳元で囁く。

「ふふっ、真子にはわからないのよ。誰かを徹底的に叩き潰すには、まず相手の懐に入り込んで弱みを握らなくちゃ。そのためには、信頼させるのが一番手っ取り早いの」

真子の目がぱあっと輝いた。

「なるほど!やっぱりね!涼華が本気であんな子と友達になるはずないと思ってたわ!」

『やっぱ騙してたのかよ!そりゃ悪役令嬢が良い人なわけないよなw』

『でも、さっきの由紀を見る目は本物っぽかったけどなあ……』

『この二転三転する展開、面白くなってきた!続きはよ!』

私は頷きながら、心の中ではまったく別のことを考えていた。

放課後になったら、森川由紀の身辺を詳しく調べる必要があるわね。

白銀家の情報網をもってすれば、一介の生徒の身辺調査など容易いことだ。

調査報告書に目を通した私の胸に、複雑な感情が渦巻いた。

森川由紀。母親は重篤な病で入院中、医療費の負担は重くのしかかる。父親はかつて会社を経営していたが、今は酒とギャンブルに溺れ、家庭内暴力も日常茶飯事。由紀は学業の傍ら、母親が入院する病院で看護助手のアルバイトをして家計を支えているという。

どうりで、彼女はいつもあんなに疲れた顔をしていたのね。

私はスマートフォンを手に取り、白銀財団の担当者に電話をかけた。

「東区中央病院に入院中の森川麗子さん、病室は一〇三号室。この方へ匿名で医療支援をお願いしたいの。すぐにでもVIP病棟へ移して。費用はすべて財団の特別会計から出してちょうだい」

『原作レイプどころの騒ぎじゃねえ!』

『え、これ救済ルート入った?根っからの悪役令嬢がなんで聖女ムーブしてんの!?』

『涼華様、ガチで物語を書き換えてる……!』

通話を終えた私は、不思議な満足感に満たされていた。

白銀家の力を、初めて『正しいこと』に使えた気がした。そして何より、私は確かに、決められたはずの運命を、この手で変え始めている。

その夜、一通の招待状が届いた。豪奢な封筒には神崎家の紋章。中には、生徒会長である神崎優の直筆の署名が入っていた。

『白銀涼華様を来週金曜日のエリート学生交流会へ、謹んでご招待申し上げます。ご来臨を心よりお待ちしております』

私は招待状を睨みつけながら、『脚本』の内容を思い返す。本来なら、私はこの交流会で森川由紀に恥をかかせ、『悪役令嬢』としての役割を決定的なものにするはずだった。

でも、今の私には別の考えがある。

もう、誰かの書いた脚本通りに動くのはごめんだわ。

私はペンを取り、招待状の出欠欄に、迷いなく『出席』の文字を記した。

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