第3章

青藤学園で月に一度開かれる、星花と月花合同の学生交流会。

それは、選ばれた生徒たちがそれぞれの家名を背負い、見えない火花を散らすための社交場だ。

オーダーメイドのシャンパンゴールドのドレスに身を包んだ私は、会場の隅にあるソファに腰掛け、手にしたノンアルコールカクテルのグラスを弄んでいた。

『原作だと、ここが悪役令嬢がヒロインに絡む重要イベント』

『ここでヒロインの安物ドレスをディスるんだよなw』

『お嬢様、そろそろお仕事の時間ですよー』

脳内に響くコメントに、私の心は重くなる。『シナリオ』通りなら、今頃、森川由紀が学園支給の簡素なドレスで現れ、私がそれを人前で嘲笑うはずだった。なのに、今日に限って彼女は来ていない。これでは辱めようがないじゃない。

「白銀さん、来てくれて嬉しいよ」

穏やかな男性の声が、背後からかけられた。

振り返ると、そこにいたのは完璧な笑みを浮かべた神崎優会長。仕立ての良いダークブルーのスーツを纏い、胸元の生徒会長の徽章が照明を浴びてきらりと光っている。

「神崎会長。こちらこそ、お招きいただき感謝いたしますわ」

私は軽く会釈を返した。

『え、ストーリー分岐した?』

『ヒーローは悪役令嬢のこと嫌ってる設定じゃなかったか?』

『なんだこの謎展開は』

神崎会長の視線が、私の顔に数秒間とどまる。

「最近の君の行動には、興味を惹かれているんだ、白銀さん。率直に言わせてもらうと、噂に聞く君とは、随分と違うようだ」

私は片眉を上げてみせる。

「どのような噂ですの?」

「『白銀家の令嬢は傲慢で我儘、常に人を見下している』とね」

彼は楽しそうに微笑む。

「だが、僕の目に映る君は、特待生をランチに誘うような生徒だ。これは……実に異例なことだよ」

『え、ヒーローが悪役令嬢を意識し始めた?このシナリオ誰が書いたんだよ』

『神崎はヒロイン一筋のはず!』

『脚本家、さては酔ってるな?』

何か返事をしようとした、その時。少し離れた場所にいる令嬢たちの会話が、私の耳に届いた。

「あの特待生、来なくて残念だったわね」

ピンクのドレスの令嬢が唇を尖らせる。

「せっかく『歓迎の儀式』を用意してさしあげたのに、次回にお預けかしら」

「文化祭のグループ活動では、きっと逃げられないわよ」

もう一人が含み笑いを漏らす。

「装飾係に配属されたそうじゃない?一番高い脚立に登らせて、あとは……ねぇ」

最後まで聞かず、私は彼女たちに背を向けた。スマートフォンを取り出し、素早く匿名のメッセージを打ち込む。

『森川さんへ。文化祭の準備、特に高い場所での作業には気をつけて。脚立を使っている時に、わざと事故を起こそうと企んでいる人たちがいます。――あなたの身を案じる者より』

送信ボタンを押し、私は深く息を吐く。こんなことをすれば、あの『声』の主たちにシナリオ介入だと騒がれるかもしれない。でも、知ってしまった以上、見過ごすことなんてできなかった。

『ストーリーが完全に逸脱した!』

『お嬢様が庶民の子を庇ってるだと?』

『これって逆救済モノ?作者、早くシナリオを修正しに来て!』

シナリオを修正?冗談じゃない。だとしたら、一体誰がこの私を救ってくれるというの?

私は心の中で冷たく笑った。

気づけば、神崎会長がすぐ隣に立っていた。彼の視線が、私が仕舞ったばかりのスマートフォンに向けられている。

「急用かい?」

「いいえ、家の予定を確認しておりましただけですわ」

私は平然と嘘をついた。

しばらくの沈黙の後、神崎会長が再び口を開く。

「少し、上の空のようだね」

そう言って彼が差し出してきたのは、アールグレイのティーカップだった。

「この交流会は、お気に召さなかったかな?」

「いえ、ただ少し考え事を」

ティーカップを受け取りながら、彼が私の最も好きな茶葉を選んだことに気づき、内心で驚く。

「森川さんのことかい?」

彼の問いは、あまりにも鋭かった。

思わずむせそうになる。

「なぜ、会長まで私と森川さんのことを、そんなに気になさるんですの?」

神崎会長の笑みは完璧なまま、けれどその瞳の奥には底知れない色が浮かんでいた。

「君たちの交流は、この青藤学園におけるいくつかの不文律を破ったからね。生徒会長として、学園の調和を乱しかねない変化には、常に注意を払う義務があるんだ」

『なんだこの展開?』

『ヒーローは悪役令嬢を嫌悪してるはずだろ!』

『ストーリーが完全に制御不能!』

私が何かを言い返そうとした瞬間、御堂真子が私たちの間に割って入ってきた。彼女の表情は、どこか強張っている。

「涼華、少しだけいいかしら?大事な話があるの」

彼女の視線が、私と神崎会長の間を不安げに行き来する。

神崎会長に断りを入れてから、私は真子に連れられてバルコニーへと向かった。

真子は声を潜める。

「神崎家と白銀家の関係って、知ってる?」

「ビジネス上のパートナー、でしょう?」

「それだけじゃないのよ!」

真子の声には、緊張とどこか興奮したような響きが混じっていた。

「お父様から聞いたばかりなんだけど、神崎家と白銀家両家、水面下で縁談を進めているらしいの。神崎会長は一人息子で、そして涼華は……」

眩暈がした。そんな話、『シナリオ』にはひと言も書かれていなかった。私の知るシナリオが不完全だったのか。それとも、私が物語に介入したことで、予期せぬ連鎖反応が起きてしまったのか。

「真子、教えてくれてありがとう」

私はどうにか冷静さを装う。

「このことは誰にも言わないでちょうだい」

会場に戻ると、神崎会長は他の生徒たちに囲まれていた。私は内心でほっとし、そのまま誰にも気づかれないよう、そっと交流会を抜け出した。

翌日の放課後、私は森川さんのお母様のお見舞いのため、病院へ向かうことにした。病状が少しでも良くなっているといいのだけれど。

校門を出て病院へ向かうと、その入り口で、神崎会長が森川さんと話している姿が目に入った。森川さんは少し疲れた様子ながらも真剣な表情で頷いており、神崎会長は彼らしい優雅さで佇んでいる。

『ここでヒーローとヒロインの接触イベント発生!』

『悪役令嬢、嫉妬に燃えて乱入するシーンきたー!』

『シナリオ通りなら、ここで白銀が事故を装って二人の邪魔するんだよな』

私はその場に立ち尽くし、一歩も動けなかった。『シナリオ』に従うなら、今すぐ駆け寄って二人の会話を妨害しなくてはならない。

でも、もう決められた筋書き通りに動くのはやめた。

深く息を吸い、私は静かに踵を返す。彼らには彼らの時間があり、対話がある。私にそれを邪魔する権利はない。

もし神崎会長が本当に森川さんに惹かれているのなら、それは二人の物語なのだから。

家に帰り着き、ノートパソコンを開いて学園からの最新通知を確認する。文化祭実行委員会の名簿が公開されており、私と森川さんは、同じグループ――装飾係に配属されていた。

どうやら運命の強制力は、まだいくつかの点で働いているらしい。

でも、今度こそ、誰にもこの機会を悪用させたりしない。文化祭は、私たちが初めて公式に協力する場。そして、『悪役令嬢』だって運命に抗えるのだと、学園中に知らしめる絶好のチャンスなのだ。

『ストーリー完全崩壊のお知らせw』

『作者、途中で変わった?』

『でも、これはこれで文化祭編が楽しみすぎる!』

私はノートパソコンを閉じた。口元に、自然と不敵な笑みが浮かぶ。

さあ、文化祭の準備を始めましょうか。

今度は私が、私自身のシナリオを描くのだ。

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