第1章
手に入れたばかりの妊娠検査の結果を握りしめ、私は寛貴のクリニックにある院長室の前に立っていた。
この子を授かったことを告げて、夫を喜ばせるつもりだった。
だが、扉の向こうから聞こえてきたのは、彼と娘の人生から私を「完全に排除」するための密談だった。
……
廊下は静まり返っている。半開きの重厚な樫の扉へ歩み寄り、手をかけようとしたその時――
「正直、もう限界だ」
私は凍りついた。
寛貴の声だ。大学時代のルームメイトである佐藤と話す時だけの、あの一切の虚飾を脱ぎ捨てた男同士の口調。
「またか?」佐藤が問う。
「あいつだよ」寛貴は吐き捨てるように言った。
「若菜だ。最近じゃ里奈が何を食うかまで管理しやがる。毎日弁当の中身をチェックして、学校にメールで給食のメニューを確認する始末だ。先週なんてダンススクールにまで乗り込んで、駐車場で美弥を待ち伏せしたんだぞ」
「駐車場で? そりゃ穏やかじゃないな」
「信じられるか?」寛貴の声が上擦る。
「美弥をあそこで捕まえて、問い詰めたんだと。『どうしてレッスンの後、毎回十分も里奈と二人きりで過ごす必要があるの』ってな。
美弥はただ熱心な講師なだけだっていうのに、あいつは何がしたいんだ? まるで自分の縄張りを守る狂犬みたいに」
爪が掌に食い込むのが分かった。
「美弥が俺を誘惑してるんじゃないかって、そう食ってかかったらしい」
「お前、昔はそういう所が好きだったんじゃないのか?」佐藤が冷ややかに笑う。
「嫉妬するのは愛してる証拠だ、とか。里奈の世話を完璧に――」
「それは昔の話だ」寛貴が遮った。
「あの頃は真面目だと思ってたが、今は……息が詰まる。なあ、聞いてくれよ。昨日里奈が言ったんだ。『美弥先生がママならよかったのに』って。美弥ならアイスクリームを食べに連れて行ってくれるし、ダンスも褒めてくれる。友達の前で、毛玉だらけのセーターを着て現れたりしないからって」
佐藤は一瞬沈黙し、尋ねた。
「で、どうするつもりだ?」
「計画がある」寛貴は声を潜めた。
「あいつには、俺が里奈を連れてモンタナのダンス合宿に行くと言うつもりだ。里奈も協力してくれる。あいつはいつも俺の援護をしてくれるからな」
「実際は?」
「美弥を連れてヨーロッパへ行く」さらに声が低くなる。
「彼女、ずっとトスカーナに行きたがってたんだ。あそこの光は写真撮影に最高だとかでな。古い屋敷を借りて、三ヶ月過ごす」
膝から力が抜けた。私はドア枠にすがりついた。
「若菜は疑わないのか?」
「里奈が口裏を合わせてくれるさ。前にもやったことがある、いつだって上手くいった」寛貴が笑う気配がした。
「里奈とは話がついている、これは二人の秘密だってな。あいつが禁止してる菓子をこっそり買ってやるんだ。八歳のガキなんて、少し甘い顔をしてやれば何だって言うことを聞く」
「若菜は、その合宿の話を信じると思うか?」
「信じるさ」寛貴は断言した。
「あいつは里奈を信じ切ってる。それに、あいつは今――」彼は言葉を切った。
「最近体調が悪いらしくてな、やれ目眩がするだの、一回り太っただのと騒いでる。三ヶ月後に俺たちが戻る頃には、何もかも過去のことになってるさ」
「何が過去になるんだ?」
寛貴はすぐには答えなかった。
「さあな」ようやく彼は言った。
「俺を窒息させる、あの重苦しい愛かもしれないな」
部屋に飛び込むべきだったかもしれない。
手の中の検査結果を顔に叩きつけ、その所謂「肥満」の原因が、彼の二人目の子供を宿しているからだと叫んでやるべきだった。
だが、私はそうしなかった。
ドア枠から手を離し、背を向ける。廊下は酷く長く、果てしなく続いているように思えた。
外の陽射しは残酷なほど眩しかった。クリニックの入り口に立った時、手の中の検査報告書は、すでに湿った紙屑のように丸められていた。
車を走らせてダンススクールへ向かった。里奈の気持ちを確かめたかったのだ。
レッスン終了まであと二十分。通りの向かいに車を停め、運転席から他の母親たちが集まってくるのを眺めた。皆、体にフィットしたパンツを履き、完璧なメイクを施し、スマホを片手に談笑している。
自分の姿を見下ろした。
四日連続で着ているパーカー。髪はゴムで適当に束ねただけで、後れ毛がボサボサと落ちている。ノーメイクの顔には、コンシーラーでも隠しきれない隈が刻まれているだろう。
今回の妊娠以来、吐き気と倦怠感が続き、身なりを構う余裕などなかった。
だが、寛貴とは家庭内別居同然の状態が続いていたため、まさか妊娠だとは思いもしなかったのだ。あの忘年会の夜、泥酔した彼が帰宅した時以外は。
終了のベルが鳴った。
子供たちが溢れ出てくる。先頭を歩く里奈の姿が見えた。友人の女の子二人と一緒だ。ピンクのレオタードを着て、髪を高い位置でポニーテールにしている。
「里奈!」
私は窓を開け、身を乗り出して手を振った。
彼女の隣にいた少女たちが、先にこちらに気づいた。
「里奈、あれがママ?」
「何の冗談よ」そのうちの一人が鼻で笑った。
「里奈ちゃん言ってたよ。ママは毎日オートクチュールのスーツを着てて、美弥先生より百倍オシャレだって」
里奈が私を見た瞬間、その表情が一変した。浮かべていた笑みが、瞬時に消え失せる。
「あれは久村よ」彼女は言った。
「うちの新しい、家政婦」
