第3章
里奈はまず寛貴に視線を走らせ、無言の許可を求めた。
寛貴が微かに顎を引く。他人が見れば気付かないほどの小さな動きだが、私にははっきりと見て取れた。
「本当のことよ」里奈はこちらに向き直って言った。
「学校が主催するプログラムなの。美弥先生も言ってたわ。これは滅多にないチャンスで、一番才能のある生徒しか選ばれないんだって」
「それに、将来いいバレエ団に入りたいなら、こういう実績がすごく大事なんだって」
喉の奥に綿を詰め込まれたような息苦しさを覚える。
「まだ八歳なのよ」私は絞り出すように言った。
「今から実績作りだなんて」
「平野さんだって八歳の時に行ったもん」里奈は悪びれもせず言い放つ。
「努力しないと置いていかれるの。お父さんの言う通りだわ、お母さんにはこういうこと、全然わからないんだ」
わずか八歳の娘が、顔色ひとつ変えずに嘘をついている。罪悪感の欠片も見当たらない。その姿は、寛貴と瓜二つだった。
夫の裏切りも十分に心を砕くものだったが、それ以上に私を絶望の淵に突き落としたのは、娘の瞳に宿る冷ややかな光と、共犯者特有の空気だった。
お腹を痛めて産んだ我が子さえもが、あの女の隠れ蓑になろうとしている。
こんなことをすれば母親との溝が深まるだけだと分からないのか? それとも――もう私のことなど母親だと思いたくないのだろうか。
「行かせないわ」
寛貴の表情が曇る。
「若菜」
「三ヶ月なんて長すぎる」私は首を振った。
「絶対に認め――」
「何でもかんでもコントロールしようとする癖、どうにかならないのか?」寛貴の声には苛立ちが滲んでいた。
「これは里奈の将来に関わる重要なことなんだぞ」
「私はあの子のために――」
「お母さんは私を支配したいだけでしょ!」里奈が言葉を遮った。
「いつもそう! アイス食べたいって言ってもダメ、テレビ観たいって言ってもダメ。やっとお父さんと出かけられるチャンスなのに、また邪魔するの!?」
「違う、私は――」
「違わない!」里奈が一歩踏み出し、私を睨みつける。
「お父さんといる時は楽しいの! お母さんといる時みたいに息が詰まったりしない。友達にだって馬鹿にされてるんだから。こんなお母さんがいて可哀想って!」
寛貴は娘を窘めるどころか、ソファに背を預け、冷ややかにその光景を眺めているだけだった。
「里奈」私は説明しようとした。あの厳しさの裏にある愛情を伝えたかった。
「私はサマーキャンプに行きたいの!」里奈が叫ぶ。
「お父さんと一緒にいたいの。お母さんと一緒なんて絶対に嫌!」
胸の奥に激痛が走った。誰かが胸郭に手を突っ込み、心臓を握り潰したかのような痛みだった。
「ダメよ」声が震える。
「どこへも行かせない」
寛貴が立ち上がった。
「若菜、いい加減にしろ。これは本当に良い機会なんだ――」
「ええ、良い機会でしょうね」私は夫を見据えた。
「でも、それは『誰にとっての』良い機会なのかしら」
寛貴の表情が凍りついた。
「どういう意味だ?」
「里奈をモンタナに連れて行くつもりなんてないくせに」爪が掌に食い込む。
「あなたが連れて行くのは美弥よ。彼女とヨーロッパに行くつもりなんでしょ」
「馬鹿馬鹿しい」
「そうかしら? 今日の午後、あなたの診察室の前にいたのよ」私も立ち上がる。
「驚かせようと思って行ったのに、あなたが佐藤さんと話しているのを全部聞いてしまったわ」
寛貴の顔色が一瞬にして蒼白になった。
「あの女を連れてトスカーナで三ヶ月のバカンスですってね」私は畳み掛ける。
「あまつさえ、自分たちの娘を隠れ蓑に利用して」
「お前の束縛が息苦しいから――」
「あなたもよ」私は里奈に向き直った。
「お父さんの嘘に加担して。あの女も一緒に行くって知ってたんでしょ?」
里奈は一瞬たじろいだが、すぐに苛立ちを露わにした。
「それがどうしたのよ!」娘は大声で言い返した。
「少なくともお父さんは、友達の前で私に恥をかかせたりしない! 美弥先生はおしゃれで優しいし、お母さんみたいにヒステリックな狂女じゃないもの!」
私はよろめき、背後のダイニングチェアに縋り付いた。
「自分が何を言ってるか分かってるの……」
「今の自分を鏡で見てみろ」寛貴の声は氷のように冷たかった。
「ヒステリーを起こして、妄言を吐き散らして。若菜、お前は本当に病気だ」
「病気なんかじゃない」私は彼を睨み返す。
「狂ってるのはあなた達よ。あの女と一緒になるために娘を利用するなんて。それに美弥だってそう。彼女のうつ病なんて真っ赤な嘘じゃない!」
「黙れ!」寛貴が怒鳴った。
「図星でしょう?」私は二階を指差した。
「彼女が『補習』に来る時の格好を見てみなさいよ。胸を強調した服に、媚びるような香水の匂い。リビングで堂々とあなたの太ももに手を置いていたくせに!」
寛貴が大股で近づいてくる。力尽くで私を黙らせる気だ。
「美弥は私の患者だ!」彼は歯噛みしながら言った。
「同時に里奈の恩師でもある。私が彼女を助けているのは、里奈の面倒をよく見てもらうためだ」
「あなたの愛人でしょ!」私は喉が裂けんばかりに叫んだ。
「私はこの家のためにこんな惨めな姿になって、今もお腹にあなたの子がいるっていうのに! それなのにあなたは、私を置き去りにして三ヶ月も他の女と駆け落ちする計画を立ててる!」
寛貴が私の腕を掴もうと手を伸ばす。
「気が触れたか。そんなデタラメを――」
「デタラメなんかじゃない!」私はその手を振り払った。
「最近体調が悪かったのも、太ったのも、目眩がするのも、病気だからじゃないわ。妊娠してるからよ。病院でも確認したんだから」
これで彼も止まると思った。少なくとも、一瞬くらいは躊躇してくれるはずだと信じていた。
だが、それは甘い幻想だった。
彼は冷たい眼差しで私を見下ろし、鼻で笑ったのだ。
「それがお前の新しい手口か?」寛貴は呆れたように首を振る。
「里奈をキャンプに行かせたくないがために、その異常な支配欲を満たすために、そんな嘘までつくようになったとはな」
「検査結果だってあるわ……」
「もういいッ!」
叫び声を上げたのは里奈だった。
彼女は火のついた爆竹のように私に向かって突進してきた。その顔は怒りで醜く歪んでいる。
「お母さんは全部めちゃくちゃにするつもりなんでしょ!」
ドンッ、と強い力で突き飛ばされた。
「どいてよ! 私たちの邪魔しないで!」
バランスを崩した私の体は、無垢材のローテーブルの鋭利な角に、腹部から激突した。
瞬間、世界が真っ白に染まる。
腹の底で何かが引き裂かれるような激痛が炸裂し、次の瞬間には、生温かい液体が太股を伝って溢れ出していた。
