第2章

沙織の視点

 心臓が暴れ出し、スマホが手の中ですべり落ちそうになった。

 ――まずい。どこまで聞かれた?

「沙織、今なんて言った?」

 車椅子に座った洋一が、陰りきった顔で私をにらみつける。

 頭が高速で回転する。手のひらに冷や汗が滲み、止まらない。

「雨宮と話してただけ」

 深く息を吸い込み、声だけは平静に整える。

「旦那さんがまた浮気したんだって。離婚しなよって言ったの」

 洋一は数秒、じっと私を見た。底の見えない瞳が、私の内側まで覗き込んでくるみたいで。

 私は無理やり視線を合わせた。時間が凍りつく。

 耐えきれなくなりそうになった、その瞬間。

「……あのクソ野郎、またやりやがったのか」

 洋一がふっと息を吐く。

「今度、村田にでも行かせて〆させるわ」

 胸の奥の力が抜け、膝が少し笑った。

「沙織」

 洋一が車椅子を滑らせて近づいてくる。声がやわらかくなる。

「先生が言ってた。明日には退院できるって」

 手を伸ばし、私の手を握ろうとする。

 私はその手を見た。

 髪を掴んで壁に叩きつけた手。首を絞めて息が途切れそうになった手。階段から突き落とした手。

 反射的に、私は一歩後ろへ退いた。

 洋一の顔から血の気が引く。

「……俺が、怖いのか?」

 声が震え、目元が一気に赤くなる。

「沙織、ごめん。全部俺が悪い。妊娠してたなんて知らなかった。自分を抑えられるって……思ってた……」

 洋一は突然、私の手首を掴み、私の手で自分の頬を叩いた。

 ぱんっ。

 乾いた音。頬がみるみる赤く染まる。

「俺は最低だ!」

 泣きながら、また私の手で自分を殴る。

「俺が……俺が俺たちの子を殺したんだ! 沙織、殴れ、殺してくれよ! 俺なんか、生きてる資格ない……!」

 一度、また一度。

 頬はすぐ腫れ上がり、口の端から血が滲んだ。

 昔の私なら、もう泣きながら抱きしめていた。

 大丈夫だよって言って、許すって言って、また子どもはできるって言って。

 でも今は、胃の奥がぐらぐらとひっくり返るだけだった。

 まただ。三年間、いつもこれ。

「……もういい」

 冷たく言って、私は手を引き抜いた。

 洋一が呆然とする。瞳にかすかな驚きが走り、すぐにさらに深い痛みで塗りつぶされた。

「沙織……」

「疲れたの、洋一」

 私は顔を背け、窓の外の灰色の空を見た。

 なぜか、結婚した年の冬を思い出す。

 大雪の日。洋一は私を抱えて雪の上でくるくる回り、「世界で一番いいものを全部やる」って笑った。

 私は涙が出るほど笑って、「あなたがいればいい」って言った。

 あの頃の私が想像できただろうか。三年後の今日、こんなにも――愛さなければよかったと願う日が来るなんて。

「……そうか。うん、そうだよな」

 洋一の声が薄くなる。怯えるような、媚びるような音。

「休めよ。全部、俺が悪い」

 彼は私の冷えた手を握りしめる。

「体が治ったら、S市に行こう。気晴らしにさ。海、見たがってたろ? 海沿いの別荘に泊まって、毎日、日の出と日の入りを――」

 S市。

 私は目を閉じた。胸のあたりに、重い塊が詰まったみたいに息がしづらい。

「……うん」

 淡々と答える。

 洋一はそれからも、いくらでも言葉を並べた。大事にするだの、償うだの、いつかまた子どもができるだの。

 一言も、入ってこなかった。

 ようやく彼が去り、病室のドアが閉まった瞬間、私はやっと息を吐いた。

 枕の下からスマホを探り当てる。三年間、一度もかけなかった番号を押した。

 コールが三度。

「……沙織?」

 低くて、懐かしい声。

 それを聞いた途端、涙が勝手にこぼれ落ちた。

 勇人。私の兄。

 三年前、私が何もかも捨てて洋一と結婚しようとしたとき、勇人は私の前に立ちはだかった。

 洋一はお前にふさわしくない、ああいう自分勝手で情のない男は信用できない、絶対後悔する――そう言った。

 私たちは大喧嘩した。余計なお世話だ、私は洋一を愛してる、死んでも一緒にいる――そう叫んだ。

 それ以来、私は一度も、自分から連絡しなかった。

「話は聞いた」

 勇人の声には、押し殺した怒りが滲んでいる。

「沙織、今すぐ人を連れて行って、あのクソを消してやる。俺の妹に手ぇ出したらどうなるか――」

「だめ」

 涙を拭って言う。

「兄さんが今、洋一に手を出したら……私はもっと危なくなる」

 電話の向こうが数秒、沈黙する。勇人が深く息を吸う音がした。

「……どうしたい」

 低い声。怒りを噛み殺したまま。

「離婚届の準備をして」

 声は小さいのに、不思議なほど揺れなかった。

「それと、N市を出たい。できるだけ早く」

「わかった。俺が用意する」

 勇人の声が、どっしりと地面を踏むみたいに頼もしい。

「三日後だ。プライベートの空港で待ってる」

 通話を切ったあと、私は暗くなった画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。

 突然、スマホの画面が光る。洋一からのメッセージ。

 長々しい謝罪。高級な贈り物の写真がいくつも添付されていた。宝石、バッグ、高級車。

 金をぶつければ、全部なかったことにできると思っている。

 私は電源を落とした。

――

 翌日、退院の手続きをした。

 医者に呼び止められ、いろいろ言われた。身体へのダメージが大きい、しっかり休養を、今後は妊娠が難しいかもしれない――。

 私は表情ひとつ変えずに聞き、書類にサインをした。

 産婦人科の前まで来たとき、足が止まる。

 廊下の突き当たり。

 洋一が背筋を伸ばして立っていた。細い腰の女を抱き寄せ、額に口づけている。

 洋一の脚は――平然と、動いていた。

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