紹介
また彼の「躁うつ病」が出たのだと思っていた。医者は、彼は自分を制御できない状態なのだと言っていた。だから、私は彼を許した。押し付けられたタバコの火傷も、折れた肋骨も、意識が遠のくまで首を絞められたあの夜の数々も、すべて許してきたように。
そして、私はお腹の子を失った。
だが、彼の電話での会話を偶然聞いてしまったのだ。
「あのクズ、いい気味だ。3年前、あいつが邪魔さえしなければ、世都子(せつこ)はとっくに俺のものになってたんだよ」
その瞬間、私はすべてを悟った。
——彼はずっと、病気なんかじゃなかった。この3年間、彼はわざと私を痛めつけていたのだ。
愛する女を「失わせた」私に対する、彼なりの罰だったのだ。
だから私は離婚届にサインをし、一度も振り返ることなく、その家を後にした。
チャプター 1
沙織の視点
私は、夫の谷平洋一が躁病を患っているのだと思い込んでいた。
三年間、私はこの身体で彼の暴力のすべてを受け止め、ありったけを注いで愛し、治そうとしてきた。
けれど今日、ようやく知った——あれは病気なんかじゃない。演技だ。そして私は、彼が狙って痛めつけるための的だったのだ。
——
夫に階段から突き落とされたあの日、私は私たちの子どもを失った。
三時間前、洋一は一本の電話に出た。
切った途端、目を真っ赤にして——制御の利かない獣みたいに——リビングの骨董の花瓶を片っ端から叩き割り、最後には、なだめようと近づいた私を、らせん階段へ容赦なく突き飛ばした。
ペルシャ絨毯が血で染まった。私の腹の中にいた、まだ生まれてもいない子も一緒に。
医者は「躁状態の再燃」だと言った。三年も続けば、私はこういう暴力に慣れてしまっていた。
これは、私が背負うべき代償なのだと。
三年前、N市でマフィア同士の大規模な銃撃戦が起きた。洋一の初恋相手、世都子が敵対する一家に攫われた。
敵が罠を張り、洋一の命を狙っていると聞いた私は、ひとりで乗り込もうとする彼を必死に引き留めた。衝動で動かないで、増援が来るまで待って——そう泣きながら頼み込んだ。
でも、思いもしなかった。
私が止めた、そのせいで——
世都子が監禁されていた倉庫は、大爆発を起こしたのだ。
壊れた洋一は、知らせを聞くなり我を忘れて現場へ向かい、その途中で凄惨な交通事故に遭った。両脚に重い障害が残り、一生車椅子が必要になった。さらに、重度の躁状態まで併発した。
それから私は、彼の妻になった。同時に、彼の怒りの受け皿にもなった。
三年間、発作のたび私は黙って耐えた。煙草の火で焼かれ、割れた花瓶で切られ、首を絞められ——この身体には大小の傷がいくつも残っている。
医者は、少なくとも七回は救急外来に運び込まれたと言った。
友人たちは去れと勧めた。これは愛じゃない、自分を壊してるだけだ、と。
それでも私は分かっていた。私は彼に借りがある。
私が引き留めたせいで、世都子は爆発に巻き込まれた。私の迷いが、彼から脚と恋人を奪った。
なら私は、残りの人生で償うべきだ。
私がもっと強くなれば、いつか彼は許してくれる。彼の子を身ごもれば、私たちはやり直せる——そう信じていた。
流産手術を終え、意識を取り戻すまでは。
VIP病室。私はベッドに横たわり、力が入らないまま、腹の奥が引き裂かれるように痛んだ。
手術台の光景が、脳裏にちらつく。
冷たい器具が体内を掻き回し、たった二か月だけ存在した命を剥がしていく。麻酔はなかった。医者は、私の体では耐えられないと言った。
でも、ほとんど痛みを感じなかった——もっと深い痛みが、とうに私の感覚を麻痺させていたから。
喉が渇いて、起き上がろうとした。そのとき、ドアの外から洋一の側近の声が聞こえた。
「ボス、奥方が流産しました。さすがに今回……やりすぎでは?」
全身がこわばり、呼吸を殺す。
続いて聞こえたのは、洋一の声。
躁も、錯乱もない。あるのは、背筋が凍るほどの冷静さだけ。
「やりすぎ? あいつにそんなこと言う資格があるのか?」冷笑が混じる。
「三年前、あいつが勝手に俺を止めなきゃ、世都子は重傷で記憶喪失になんてならなかった。佐々木ってクソ野郎に、いいところを掻っ攫われることもなかった。俺が一番に、世都子の傍に行けたはずだ。なのに今はどうだ? 世都子はS市であの男と幸せに暮らしてる。俺は指をくわえて見てるしかない」
「この三年、沙織が受けた苦しみ? 俺が世都子を失った苦しみの、万分の一にもならねえ。子どもだって、流れたならそれでいい。あいつに谷平家の跡継ぎを産む資格はない」
一拍置いて、苦いものを噛み潰したような声が落ちた。
「世都子が今日、写真を送ってきた。妊娠したらしい。三年だ……ようやく、あいつは自分の家庭を持てる」
頭を鈍器で殴られたみたいに、思考が止まった。
世都子は生きている。しかも妊娠している。じゃあ三時間前の電話は——
「ボス……」側近が何か言いかける。
「いい」洋一が遮った。急に、淡々とした声音になる。
「俺も、そろそろ手放すべきだ。この三年、沙織には確かにやりすぎた。今日の電話で本気で頭に血が上って、一瞬、加減ができなかった。世都子が新しい人生を生きてるなら、俺もこれからは沙織とちゃんと暮らす。子どもだって……そのうち授かるだろ」
息が詰まり、呼吸が浅くなる。
じゃあ、この三年の「発作」も「失控」も「残虐」も——全部、作り物だったの?
彼は病気なんかじゃない。ただ私を憎んでいただけだ。
深夜、悪夢で飛び起きた彼を抱きしめたこと。暴れたあと、頭を抱えて泣き崩れたこと。私は彼も苦しんでいるのだと思っていた。私が必要なんだと。
でも全部、正気だった。
私が土下座して謝るのを、正気で見ていた。殴られて血だらけになっても「ごめんなさい」と言う私を、正気で見ていた。妊娠して、恐る恐る浮かれた私の喜びを、正気で見ていた。
そして正気で——私を階段から突き落とした。
私たちの子どもを殺した。
世都子を逃した罰として、私を罰するために。
今さら世都子が幸せになったから、彼は「手放す」? 「ちゃんと暮らす」?
じゃあ、私の子は。私の三年は。
私は唇を噛み締め、濃い血の味を舌に感じた。涙が音もなく落ちる。なのに口元は、泣き顔よりも醜い笑みの形になっていた。
三年。もう少し頑張れば、もう少し耐えれば——いつか許されると信じていた。
最初から最後まで、私が私を騙していただけだった。
唐突に、スマホの着信音が鳴った。
機械みたいに通話ボタンを押す。
「沙織!」親友の雨宮が興奮した声で叫ぶ。
「夏村先生、説得できた! ついに洋一の治療を引き受けてくれるって! あんた、前に気が狂いそうだって——これでやっと——」
「もう、いいの」私は遮った。
自分の声が、怖いほど静かだった。
「は?」雨宮が言葉を失う。
「沙織、正気? 夏村先生の家族はマフィアの抗争で亡くなってる。この人、この手の家に一生恨みを持ってるのよ。あんた、首を縦に振らせるために、先生の家の前で一晩中ひざまずいたじゃない。やっと受けてくれたのに、いらないって?」
私は目を閉じた。
三年、洋一の躁を治すために、やれることは全部やった。
N市の精神科医を片っ端から回った。教会で祈り、神父に悪魔祓いじみたことまで頼んだ。インドから鎮静の香料を取り寄せ、タイから心の傷を癒やす禅僧まで呼んだ。
西洋医学、東洋医学、心理療法、催眠——希望が一筋でもあるなら、胡散臭い相手にだって縋った。
努力さえすれば、治す道が見つかると信じていた。
でも、治療なんて必要なかった。
彼は最初から、病気じゃなかったから。
「雨宮」苦く笑う。
「もういいの。私、離婚するから」
言い終えるより先に、病室のドアが乱暴に押し開けられた。
「離婚?」車椅子の洋一が、陰気な顔で入口に現れる。
「沙織、今なんて言った?」
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育ての親の一家に家を追い出されたあの日、私は微笑みを浮かべながら、奴らが施しとしてよこした金をゴミ箱へと投げ捨てた。
誰も想像すらできないだろう。この私が、数々の名門貴族や権力者たちが大金を積んで列をなし、首を長くして診察を待つ伝説の名医——【暁】だなんて。
私が時価総額数十億ドルのファッション帝国を裏で支配していることも、ウォール街の株価をたった一回の取引で大暴落させられることも、誰も知らない。私はその正体を、この平凡で冴えない素顔の裏にすべて隠し持っていた。
さらに劇的なことに、私の実の親はこの街で頂点に君臨する最高峰の大富豪だった。
そして私の婚約者——すでに顔を合わせているにもかかわらず、その正体を知らなかったあの男こそ、この街の誰もが名前を聞くだけで震え上がる、ビジネス界の冷酷な死神:梅原晴琉だったのだ。
ある日、彼は私の手を執り、ゆっくりと距離を詰めると、耳元で低く囁いた。
「俺のこの鼓動、今なら感じられるか?」
私は至って真面目な顔で彼の胸に手を当て、大真面目にこう返した。
「心拍数は確かに少し高めですが、非常に健康的です。心配ありませんよ」
彼は一瞬呆気にとられ、それからふっと吹き出した。その瞬間の彼の笑顔に、私の心臓もなぜかドクンと跳ねた。それは、自分自身でも説明のつかない初めての衝動だった。
だが、彼が私の真実に一歩ずつ近づくにつれ……私の心は揺らぎ始めている。自分の最後の秘密を、あとどれくらい隠し通せるのだろうか。
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……だが、ちょっと待ってほしい。なぜ私には突然、婚約者というものが存在するのか。しかもその相手は、私の大学の教授だという。誰か、説明してくれないだろうか。
追放された偽物の娘、その正体は最強でした
あの子が現れたその日、私は『偽物の娘』として家を追い出された。
渡されたのは、わずかな小銭と地方行きの片道切符だけ。
さらに婚約者は私をゴミのように捨て、その日のうちに『本物』であるあの子にプロポーズした。
……上等じゃない。せいぜい勝った気でいればいいわ。
だって彼らは、私の【本当の顔】を何一つ知らないのだから。
名門病院が見放した命を救う『天才外科医』。
オークションで数億円の値を叩き出す『伝説の画家』。
裏社会の闘技場で無敗を誇る『影の女王』。
そして――彼らの全財産すら小銭に思えるほどの『真の巨大財閥の後継者』であることを。
今さら元婚約者が土下座で許しを請おうと、本物の娘が嫉妬で狂いそうになろうと、もう遅い。
かつて私に婚約破棄の書類を叩きつけた冷酷で傲慢なCEOでさえ、今や何かに取り憑かれたように私を追い回し、「もう一度だけチャンスをくれ」とすがりついてくる始末。
私を捨てて、自分たちの人生を『アップグレード』したつもり?
笑わせないで。最初から、圧倒的に上の存在だったのは私のほうよ。
トップ暗殺者、学園に転生する
そして、目が覚めた。
16歳。肥満体型。顔中に広がったニキビ。冷え切った体育倉庫の片隅で、私は丸まっていた。
周囲から16年間ずっと忌み嫌われてきたこの肉体の中で、私はわずか3秒で状況を理解した――。
「死体への憑依、つまり――転生だ」
元の肉体の持ち主は、誰もが容赦なく踏みにじる、お人好しの「いじめられっ子」だった。
継母は慢性的な毒物で彼女の身体を破壊し、実の妹は彼女を裏切って罠に嵌め、クラスメイトは彼女を暗闇に閉じ込めて冷水を浴びせ、教師さえも一緒になって彼女を踏みつけにする。
だが、あいにく。
今この身体の中にいるのは、暗殺組織のトップだ。
地獄の底から這い上がってきた、一人の女だ。
私はまず、元の持ち主が昨夜味わった屈辱のツケをきっちりと払わせ、皮膚に残る毒素を洗い流した。
物理のテストでは満点をもぎ取り、超一流の弁護士を1分1秒の狂いもなく現場へ急行させて私の弁護に当たらせ、果ては市長自らに我が家の門を叩かせ、私の後ろ盾にならせた。
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かつて尽くしまくった元婚約者・石野星紀なんて、視界に入れる価値すらない。
勘違いしないで。
今の私は、ただの「有岡家のお嬢様」じゃないんだから——。













