第3章
沙織の視点
私はその場に立ち尽くしていた。魂だけを抜き取られたみたいに、身体の中がすっぽり空っぽだ。
洋一が、まっすぐ立っている。長くてしなやかな脚。落ち着いた所作。どこからどう見ても――普通の人間だ。いや、もともと普通だったのだ。
脚には、何の問題もない。
躁状態が嘘だってことは知っていた。けれど、まさか障害まで嘘だったなんて。
この三年、私は毎晩のように彼の脚を揉んだ。「痛くて眠れない」と訴える声を聞いた。リハビリにも付き添った。立てないことに絶望して、顔を歪める彼を見守った。
全部、嘘。
廊下の向こうで、世都子が泣きながら何かを訴えている。目の縁は真っ赤だ。洋一の表情はみるみる翳っていき、顎のラインがぎゅっと固くなる。眉間には深い皺。
見慣れすぎた顔――「発作」の前兆。
心臓が跳ね上がる。次の瞬間には物を投げ、壊し、制御を失って――
洋一が手を上げた。
身体が反射的に強張り、止めに走り出しそうになる。
けれど彼は、ただ世都子の頬の涙をそっと拭っただけだった。恐ろしいほど優しく、壊れ物を扱うように慎重で――世界でいちばん大切な宝物に触れるみたいに。
私は、思わず鼻で笑った。
そうだ。洋一が世都子を傷つけるはずがない。彼の暴力は、いつだって私ひとりのために取っておかれている。
家に戻り、私は機械みたいに玄関を押し開けた。
リビングの壁には、まだウェディングフォトが掛かっている。フレームのガラスは半分割れていた。先月、洋一が「発作」を起こしたときに叩き割ったものだ。ソファには血の染み。二週間前、ローテーブルに突き飛ばされたときの。寝室のドアノブは新品だった。一か月前、閉じ込められて必死で出ようとして、ぶつけて壊したから。
この家は、私が傷ついた痕で埋め尽くされている。
寝室に入り、クローゼットのいちばん奥から小さな箱を引き出す。荷造りを始めた。パスポート、身分証、カード……
洋一にもらった服やアクセサリーに指が触れた瞬間、動きが止まる。
高価なはずのそれらが、今は目に痛い。ひとつひとつに、私の血と涙が染みついているように思えた。
何も持っていきたくない。
結局、入れたのは簡単な着替えだけ。ぱちん、と箱を閉じる。
「沙織、何してる」
背後から、洋一の声が落ちてきた。
振り返ると、彼は車椅子に座っていた。私の手元――パスポートと荷物――を見つめる目が、警戒と冷たさで硬い。
「どこへ行くつもりだ」
「L市」拳を握りしめ、平静を装って言う。
「あっちに神経損傷に詳しい医者がいるって聞いたの。あなたの脚、もしかしたら――」
「駄目だ!」洋一が、ほとんど怒鳴る。
自分の反応が大きすぎたと気づいたのか、彼は深く息を吸い、声を落とした。
「……いや、つまり……何年もだ。医者も散々回った。どれも駄目だっただろ。沙織、もう――」
「試したいだけ」私は彼のそばに寄り、しゃがみ込む。そしていつも通り、ふくらはぎに手を当てた。
「脚が良くなれば、心のほうも落ち着くかもしれないでしょ」
指先で揉みほぐしながら、私は知っている。無意味だと。だって、彼の脚は最初から何ともない。
「洋一」
ふっと顔を上げた。
「どうして治療を嫌がるの? 本当に私を愛してる? それとも……もう別に好きな人がいるの。三年ずっと、私を騙してたの?」
洋一の顔色が変わり、目の奥に一瞬だけ後ろめたさが走る。
「違う」彼は私の手を掴み、掠れた声で言った。
「沙織……俺は、ただ……怖いんだ」
「何が」
「治療しても無駄かもしれないことが」視線を落とし、言葉を絞り出す。
「この三年、何度も希望を持って病院へ行った。そのたびに、何も変わらなくて……もう一度挑むのが怖い。もしまた駄目だったら、俺は本当に壊れる」
「沙織……」彼は顔を上げた。目の縁が赤い。
「ごめん。俺が自分勝手で、君に苦労をかけてるのは分かってる。でも信じてくれ。俺は本当に君を愛してる。今まで一度も、君を騙したことなんて――」
言葉が途切れ、少し間が空く。
「覚えてるか。五年前、八代田と九条がやり合った時。君が攫われて、廃港の倉庫に閉じ込められた」
「俺は一人で突っ込んで、三発撃たれて……死にかけた。病院で一か月も意識が戻らなくて、目が覚めたあと、君は聞いただろ。後悔してないかって」
「俺は言った。後悔なんてしないって。沙織、俺は本気で君を愛してる。もう一度同じことが起きても、俺はまた君を助けに行く。だから……頼む、信じてくれ。裏切ったり、騙したりしない」
涙が、私の首筋に落ちた。ひやりと濡れる。
なのに心は、底へ沈みきったまま――一滴の波紋も立たない。
洋一は、役者だ。今この瞬間でさえ、平然と嘘を重ねている。私たちのいちばん美しかった記憶を使って、刃物みたいに、何度も何度も心臓を刺してくる。
「分かってる」
私は笑みを作り、優しく言った。
「赤ちゃんを失って、私……少しおかしくなってた。ごめんね、洋一」
洋一の肩から力が抜ける。彼は私の額に口づけた。
「分かるよ。休め。俺は少し仕事がある」
洋一が出ていったあと、私は立ち上がり、彼のコートを手に取ってハンガーへ掛けようとした。
指先がポケットの中のスマホに触れ、動きが止まる。
私は洋一のスマホを覗いたことがない。三年ずっと、一度も。
でも今は、どうしても見たかった。彼がまだ何を隠しているのか。
画面には未読のメッセージがいくつか。全部、世都子から。
【洋一、今日はありがとう。あなたがいなかったらどうしていいか分からなかった。佐々木のクズ、また私と喧嘩して、手まで出してきて……】
【今日あなたが言ってたこと、ずっと考えてる。沙織は本当に、私と子どものこと……受け入れてくれるの?】
【すごく勝手なお願いだって分かってる。でも子どもには父親が必要なの。もし本気で引き受けてくれるなら……本当に感謝する】
手が震えだす。
子ども。洋一は世都子の子を育てるつもりだ。よその男の子どもを。
私たちの子を失ったばかりなのに、もう他人の子の父親になるのが待ちきれないってこと?
どうしてそんなに寛大でいられるの。世都子も、よその男の子どもも受け入れられるのに――私たちの子は? あなたが自分の手で殺した、あの子は?
胸の奥を、見えない手でぐしゃりと掴まれたみたいに息が詰まる。
「沙織!」
耳元で、洋一の怒号が炸裂した。
「何してる?!」
花瓶が、私めがけて飛んできた――
