第4章

沙織の視点

 花瓶が耳元をヒュッと掠め、壁に激しく叩きつけられた。

 パリン、と砕けた破片が飛び散り、鋭い陶片が頬をかすった。すぐに、熱いものが頬を伝って落ちていくのがわかる。

「俺のスマホ、見てたのか?」

 洋一が車椅子を勢いよく走らせて迫り、私の手からスマホをひったくった。

「沙織、俺たちの間に信頼ってものはないのか?」

 反射的に後ずさりして、背中が壁にぶつかる。

「来ないで」

 両手を前に出して遮ると、声が震えた。

 洋一が止まる。私の頬の血を見た瞬間、顔色がさっと変わった。

「……怪我してる」

 声がふっと柔らかくなる。

「沙織、わざとじゃない。俺はただ……」

「触らないで!」

 伸ばしかけた手が、宙で固まる。

 しん、とした静けさ。聞こえるのは、私の荒い呼吸だけ。

 この三年で、何度こうして、彼の伸びてくる手から逃げたのか。もう覚えていない。

 そのとき、洋一のスマホが鳴った。彼は画面に目を落とし、目の奥に喜びが走る。

「先に傷、手当てしろ」

 手を引っ込めると、口調が少し硬くなった。

「それと、もう勝手に俺のものを漁るな。夫婦なのはそうだけどさ、プライベートくらいあるだろ?」

 言い終える前に、彼は車椅子で寝室を出ていった。

 扉が、私の目の前で閉まる。

 廊下で電話に出る声が聞こえた。押し殺した声なのに、わかってしまう。あの甘い優しさ――私に一度も向けられたことのない声。

 私はゆっくりしゃがみ込み、自分の身体を抱きしめた。

 頬の傷がひりつく。でも、もう麻痺している。

 大丈夫。そう自分に言い聞かせる。あと二日。二日後には出ていける。これから先、谷平洋一とは二度と関わらない。


 翌朝、目が覚めると、洋一が台所にいた。

 朝食を運んできて、笑顔を貼りつける。

「起きた? 朝ごはん作ったんだ。食べてみて」

 私は彼を見たまま、黙っていた。

「沙織、昨夜は俺が悪かった」

 ベッドの端に腰を下ろす。

「怒鳴るべきじゃなかったし、物を投げるなんて……。その顔の傷も……」

 洋一が頬に触れようとする。私は身を引いた。

 手がまた宙で止まり、彼の目に一瞬だけ痛みが滲む。

「もう二度としないって約束する」

 彼は手を引っ込めた。

「今日は好きな服、何着か買いに行こう。欲しいもの、なんでも買ってやる。謝罪ってことで」

 私の声は、驚くほど落ち着いていた。

「そのセリフ、何度も聞いた」

「今回は違う」

 洋一が私の手を握る。

「沙織、俺、本気で変わりたいんだ。チャンスをくれないか?」

 私は彼の目をまっすぐ見返した。

「また繰り返したら、離婚しましょう」

 洋一の顔から笑みが消え、空気が沈む。

 握る力が強まり、手首が痛い。目つきが暗くなっていく――嵐の前の空みたいに。

「……何て言った?」

「だから、もしまた――」

「ダメだ」

 言葉を遮り、噛みしめるように言う。

「沙織、俺たち、一生一緒だって決めただろ。離婚なんて絶対に認めない。絶対に」

 凝り固まった執着が、目の奥に張りついている。

「変わる。絶対に変わる。だから……離婚なんて言葉、もう二度と口にするな」

 その視線が怖くて、私は慌てて言った。

「冗談よ」

 洋一は長いこと私を見つめ、ようやくゆっくり手を離した。

「それならいい」

 立ち上がると、また穏やかな笑顔に戻る。

「ほら、朝ごはん食べて。食べたら出かけよう」


 ブティックでは、洋一はやけに気が利いた。

「これ、どう?」

 ドレスを手に取って言う。

「試してみろよ」

 店員がすぐに寄ってきた。

「奥様、こちらはパリから空輸で入ったばかりの新作でして、とてもお似合いになると思います」

 試着室でドレスに袖を通す。生地は上質で、縫製も丁寧。でも、私の好みとはまるで違った。

「綺麗だ」

 洋一が笑う。

「これにしよう」

 着替えて出ようとしたとき、店員が慎重に口を開いた。

「谷平様、先週パリから空輸の手配をいただいたオートクチュールの一着が届いておりますが、今ご覧になりますか?」

 洋一の目が一瞬だけ揺れた。

 小声になる。

「……今はいい。奥にしまっておいて。あとで取りに来る」

 試着室の鏡の前で、私はスカートの裾をぎゅっと握りしめた。

――そういうこと。

 ドレスを脱いだあと、何も聞かなかったふりをした。

 洋一が会計をしている間、私は淡々と言う。

「お手洗いに行ってくる」

「わかった。ここで待ってる」

 私はトイレの方向へ歩き、角を曲がる手前で足を止めた。

 洋一のスマホが鳴る。出た瞬間、彼の表情がふっと和らいだ。

「世都子、どうした?」

 その声は、私の知らない優しさだった。

「……うん、今すぐ行く。カフェで待ってて。動くなよ」

 通話を切ると、洋一は店員に言った。

「さっきのドレス、包んでおいてくれ。あとで取りに来る」

 私は踵を返し、今トイレから戻った顔で近づいた。

「沙織、会社で急用が入った」

 洋一が私のほうへ来る。

「先に帰ってて。片づけたらすぐ戻る」

「わかった」

 私は頷いた。

 洋一が去っても、私はすぐには動かなかった。店の外、ショーウィンドウの脇に立ち、待つ。

 十分もしないうちに車が止まった。

 世都子が降りてくる。ゆったりしたワンピース。膨らみかけたお腹が、はっきり見て取れた。

 洋一が迎えに出て、そっと身体を支えるようにして店へ導いた。

 私は見ていた。

 洋一が世都子に上着をかけてやるところも。

 片膝をついて、スカートの裾を整えてやるところも。

――あの、パリから空輸したドレスを、彼女に試着させている。

 世都子がふいに振り返り、ガラス越しに立つ私を見つけた。

 一瞬きょとんとして、それから口元に勝ち誇った笑みが浮かぶ。

 ゆっくりと、余裕たっぷりに手を振る。まるで所有権を誇示するみたいに。

 私は背を向けて歩き出した。

 今回は、胸も痛まない。悲しくもない。

 ただタクシーを拾って、そのまま空港へ向かった。


 その頃、店内の洋一はスマホを取り出し、私に電話をかけようとして――繋がらないことに気づいた。

 眉をひそめ、何度かかけ直す。結果は同じ。

「どうしたの?」

 世都子が尋ねる。

「いや、別に」

 洋一はスマホをしまった。

「電波が悪いだけだろ」

 なのに、胸の奥に、理由のわからないざわつきが残る。

 そのとき、スマホが鳴った。秘書の村田からだ。

「ボス」

 村田の声が焦っている。

「弁護士の方がいらしてます。奥様からのご依頼で、離婚の件を――話したいそうです」

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