第3章

 浜友の握力は凄まじかった。まるで万力のように私の手首を締め上げると、乱暴に後ろへと放り投げる。

 ドンッ。

 背中が硬いベッドの支柱に激しく叩きつけられた。あまりの激痛に、目の前がチカチカと明滅する。

「綾香、いい加減にしろ! 気でも狂ったのか!?」

 浜友は私を一瞥すらせず、真っ先に佐和美を抱き寄せた。その首筋を慌ただしく確認する声には、痛々しいほどの情愛が滲んでいる。

「怪我はないか? まったく、この女は……話の通じない狂人だ!」

 佐和美は首元を押さえ、梨の花が雨に打たれたように弱々しく咳き込んでみせた。だが、その瞳の奥には挑発的な光が宿っている。

「浜友、綾香さんを責めないで……。きっと気が動転しているのよ。クルミちゃんがいなくなって、焦っているだけなの」

「焦っていれば殺人を犯してもいいと言うのか?!」

 浜友が振り返り、汚物でも見るような目で私を睨みつけた。

「お前の育ちは犬にでも食わせたのか? 佐和美は身重なんだぞ。もし子供に何かあったら、ただじゃ済まさん。貴様にも同じ目に遭わせてやるからな!」

 同じ目、だと?

 私は支柱にすがりつき、ゆっくりと身体を起こした。目の前にいる恥知らずな男女を見つめながら、突然、すべてがどうしようもなく滑稽に思えてきた。

 私の娘は、もう死んでいる。

 浜友の腕の中にいる、その女の毒牙にかかって。

 それなのに。クルミの実の父親であるはずの男は、殺人犯を庇い、あの女の腹にいる『野良犬の子』のために私を脅しているのだ。

「……浜友」

 口の端から滲む血を拭う。私の声は、紙やすりで削ったように枯れていた。

「あなたの言う通りね。もう、うんざりだわ」

 顔を上げる。私の瞳は、凍てつくように冷たく、虚ろだった。

「明日の午前十時、本家の広間に来なさい。そこで離婚の話をするわ」

 浜友は一瞬呆気にとられたようだったが、すぐに鼻で笑った。

「離婚だと? そんなことで俺を脅せると思っているのか? 綾香、気を引こうとするその魂胆が見え透いていて、反吐が出る」

「脅しかどうかは、明日になればわかるわ」

 私はもう彼を見なかった。懐にある小さな骨壺を抱きしめ、踵を返す。

          ◇

 翌朝、富島家の議事堂。

 巨大な円卓の周りには、一族の幹部や古参たちが席を連ねていた。極道の世界は年功序列だ。かつて父の最も忠実な部下だった彼らだが、今は誰もが不快感を露わにし、ひそひそと私語を交わしている。

 重厚な扉が開かれる。

 私は喪服のような漆黒のドレスを身に纏い、黒いベルベットに包まれた箱を抱いて、一歩一歩大広間へと進んだ。

 上座には、仕立ての良いダークグレーのスーツを着た浜友が座っている。その隣にはなんと佐和美の姿もあった。まるで女主人のように振る舞い、当然のような顔で周囲の視線を受け入れている。

 私が入ってくるなり、浜友は眉をひそめた。

「綾香、皆の時間は貴重なんだ。お前のおままごとに付き合っている暇はない。謝罪しに来たのなら、今すぐそこで土下座でもするんだな」

「約束を果たしに来たのよ」

 私は長テーブルの端まで歩み寄ると、変色した古い書類を叩きつけるように置いた。

「これはあなたが私を娶る際、両家の両親が交わした婚前契約書よ」

 周囲を見渡し、冷徹な声で告げる。

「契約第十条。夫たる者が婚姻を裏切り、家門を扶助する責務を怠った場合、妻は一方的に婚姻を破棄する権利を有する。かつ、夫は『背信』の制裁を受け入れなければならない」

 広間が瞬時に静まり返った。

 浜友の顔色が沈む。

「……何を言いたい?」

「契約に基づき」

 私は書類に押された赤い実印を指差した。

「富島家は、かつて鈴原家が注入した救済資金の全額、計八億ドルを返還すること。これに過去十年のインフレ率を考慮した利息を加算してね」

「それから」

 私の視線は鋭い刃となって、テーブルの上に置かれた浜友の左手を射抜いた。

「裏切り者は、この世界の流儀に従い、指を詰めて謝罪すること」

 その言葉が落ちた瞬間、場内がどよめいた。

「この女、気でも触れたか?」

「指を詰めろだと? それに資金の引き上げ? そんなことをすれば富島家は屋台骨が揺らぐどころか、資金繰りが破綻するぞ!」

 強面の長老の一人が、バンと机を叩いて立ち上がった。

「綾香! お前の父親はもう死んだんだ! 今や富島家こそが最大勢力なのだぞ。紙切れ一枚で指図できると思っているのか!」

「そうだ」と別の長老が追従する。その目は貪欲に濁っていた。

「当時の金なんぞ、とっくに事業に溶けている。今さら吐き出せなどという道理があるか! お前もわきまえろ。私情で組織の利益を損なうなど、草葉の陰でお父上が泣いているぞ!」

 かつて父に媚びへつらっていた者たちの醜い顔を見つめながら、心の中に冷たいものが降り積もっていく。

 これが、いわゆる『世交』であり『重鎮』たちの正体だ。

 落ちた偶像は踏みつけられ、去る者は日々に疎し。

「浜友……っ」

 突然、佐和美が悲鳴のような声を上げ、浜友の手を取って自らの頬に寄せた。涙を流す演技は堂に入っている。

「指を詰めるなんて……そんな、痛いことさせられないわ! 綾香さん、私を恨むなら私に来ればいいじゃない。どうして浜友にそんな残酷なことができるの? あなたの夫なのよ!?」

 彼女はこちらを向き、か弱く震えてみせた。

「綾香さん、私が妊娠したのを妬んでいるのはわかるわ。でも、お金は所詮ただの物でしょう? でも浜友の指は、心と繋がっているのよ。本当にそんな残酷なことができるの?」

 浜友の表情は、水が滴り落ちそうなほど陰鬱だった。彼は佐和美の手を振り解くと、テーブルの上の契約書を乱暴に床へ払い落とした。

「綾香、いい加減にしろ!」

 彼は立ち上がり、威圧的な影を落としながら私に迫った。

「俺に指を詰めろだ? 金を返せだ?」

 まるでこの世で一番面白い冗談を聞いたかのように、その唇が残忍に歪む。

「お前はまだ、自分が極道のお嬢様だとでも思っているのか?」

「目を覚ませ! お前の両親は死んだ! 今の貴様は無一文で、何の後ろ盾もない。一体何を使って俺と戦うつもりだ?」

 彼は手を伸ばすと、侮蔑しきった手つきで私の頬を叩いた。顔が痺れるほどの力だった。

「今の富島家において、ルールは俺だ。俺がその契約書を無効だと言えば、それはただの紙屑なんだよ」

「離婚したいならすればいい」

 浜友は椅子に座り直して足を組むと、葉巻に火をつけた。紫煙を燻らせるその態度は、傲慢そのものだった。

「契約を履行しないと言うのね」

 私は視線を逸らすことなく、むしろ微かに笑ってみせた。

「結構よ。それなら鈴原家が残したあらゆる人脈を使って、たとえ刺し違えてでも貴方たちに代償を払わせる。信じなさい。私がその気になれば、この部屋にいる誰一人として、ただで済むとは思わないことね」

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