第2章
「お願い! 傷つけないで!」
私は男の手に煌めく刃先を恐怖に震えながら見つめ、本能的にその手首を掴んだ。冷たい金属の感触に全身が震えたが、生きたいという本能が、この最後の希望に必死に縋りつかせた。
「お金ならいくらでも工面します!」
恐怖で震える声で、私は必死に訴える。
「アトリエを売ってでも、私……」
男は眉を上げ、私の反応に意外そうな顔をした。その鋭い眼が、薄暗い照明の下で危険な光を宿しながらも、私には読み取れない感情をたたえている。
「特に今は、まだやり残したことがたくさんあるんです!」
涙で視界が滲む中、私は懇願を続けた。
「私の陶芸作品が、展覧会で賞を獲ったばかりで、アトリエもやっと軌道に乗り始めたところで……」
彼の口角が微かに上がり、面白がっているような表情が浮かんだ。
突如、奇妙な熱い流れが全身を駆け巡るのを感じた。薬が効き始めたのだ。意識は朦朧とし、身体は異常なほど敏感になっていく。
倉庫内は静まり返り、遠くから波が埠頭を打つ音だけが聞こえてくる。
こんなところで死ぬわけにはいかない……。
私は深く息を吸い、ありったけの勇気を振り絞って、この危険な男に自ら歩み寄った。
「あなたに従います、抵抗はしません……。したいようにしてくれて、構いませんから……」
彼の眼差しは一層深く、危険なものになった。まるで夜の狩人が獲物を吟味しているかのようだ。
これが、私にとって最後のチャンスかもしれない。
震えながら、私は再び彼に身を寄せ、その唇にそっとキスをした。
しかし予想に反して、彼は私を強く突き放し、その目に複雑な感情を過らせた。
「お前を殺したり、傷つけたりするつもりはない」
私は呆然とし、自分の耳を疑った。
彼は屈んで私の手首を縛っていた麻縄を切り、それから立ち上がって私を見下ろした。
「今ならまだ後悔しても間に合う。別の者にここから送り届けさせよう」
「だが、もし俺と来ることを選ぶなら」
彼の声は低く、危険な響きを帯びていた。
「もう引き返せなくなるぞ」
彼を見上げると、脳裏に柏木悠真の冷たい声と、他の女性にキスをする声が蘇った。
薬のせいで全身が熱く、足に力が入らない。今の自分の状態で、たとえ彼が解放してくれたとしても、そう遠くへは行けないことは分かっていた。こんな人けのない埠頭で、夜も更けている。非力な女一人、いつもっと危険な目に遭うか分からない。
目の前の男は危険だが、少なくとも私を攫った連中のように、すぐに危害を加えてはこなかった。彼について行く方が、むしろ今一番安全な選択なのかもしれない。
「あなたについて行きます」
私はきっぱりと答えた。
「後悔はしません」
彼は身を屈めて私にキスをした。片手で私の首の後ろを固定し、拒絶を許さない。
どれくらいの時が経ったのだろうか。気づけば、私は高級ホテルのバスルームにいた。
シャワーヘッドから温かい湯が流れ落ちる中、彼は私を冷たい大理石の壁に押し付ける。しかしその目は、私の左手の薬指に注がれていた。
「主持ちのくせに、よくも俺を誘惑できたな?」
その指輪に視線を落とし、彼は冷たく問い詰めた。
「ちが、違います……」
朦朧とした意識で私は応える。薬のせいで思考が働かず、本能的に答えるしかなかった。
「この指輪、もういらない……」
彼の動きが、ぴたりと止まった。驚きがその目に過る。
彼は私の手からそっと指輪を抜き取ると、それをじっくりと眺めた。
「いらない、か。なら、そいつに返してやろう」
彼の眼差しが少しだけ和らぎ、私の耳元で囁いた。
「黒川尚也。俺の名前を覚えておけ」
「俺の名を呼べ」
と、彼は命じる。
「黒川尚也……」
私は抑えきれない震えと共に、か細くその名を呼んだ。
この夜、私は過去十年の執着に、完全に別れを告げた。
