第1章 見知らぬショートメッセージ
チン!
竹内葵が駐車場に着いたばかりのところで、スマホが唐突にメッセージの通知音を鳴らした。
反射的に開くと、画面に一行が飛び込んでくる。
「桜木通りには行くな。危ない」
差出人は、登録のない見知らぬ番号だった。
桜木通りは、彼女の家から一笙美術館へ向かう際の通り道で、しかも最短ルートでもある。
竹内葵は訳が分からず、誰かの誤送信か、あるいは迷惑メッセージだろうと深く考えなかった。運転席に乗り込み、エンジンをかける。
夕方の混雑はすでに過ぎ、道は驚くほど空いていた。交差点で青信号を待っていると、また通知音が鳴る。
画面が点き、手に取って確認すると、さっきと同じ番号――ただし内容が違った。
「20時30分、桜木通りで多重追突。行くな!」
竹内葵は一瞬固まり、眉間にしわが寄る。20時30分まで、あと7分。しかもこの信号を渡って曲がれば、もう桜木通りだ。
そのとき、スマホに着信が割り込んできた。アシスタントの永井杏奈からだ。
思考を断ち切るように通話を取り、耳に当てる。
「もしもし」
「葵さん、庄司社長に買った腕時計、持っていくの忘れてます」
竹内葵は目を瞬かせた。今日は庄司優斗との結婚三周年の記念日だ。本来なら二人で過ごす段取りまで決めていたのに、三日前、彼が急な出張に出ることになった。
腕時計は数日前に買って、ずっと引き出しに入れていた。夕方には「忘れないように」とわざわざ出しておいたのに――結局、忘れた。
彼から「帰った」と連絡が来て、上着とスマホだけ掴んで飛び出してしまったのだ。
幸い、永井杏奈には毎日退勤前に自分のオフィスを片づける習慣がある。
「今から戻って取りに行く」
通話を切り、さっきのメッセージに視線が吸い寄せられる。数秒後、背後からせかすようなクラクション。青信号に変わったのを見て、竹内葵はスマホを放り投げるように置き、ハンドルを切って美術館へ戻った。
美術館に着くと、永井杏奈が腕時計を手に入口で待っていた。
受け取りながら、竹内葵はふっと笑う。
「ありがとう」
帰り道。前方から、救急車が一台、二台、三台と猛スピードで駆け抜けていく。前後にはパトカーや白バイも何台も連なり、サイレンが夜気を切り裂いた。
――まさか。
胸の奥に不穏が広がり、ハンドルを握る手に力が入る。
交差点に差しかかったところで、交通警官に止められた。
「桜木通りで多重事故が発生しました。通行止めです」
多重事故――。
心臓が跳ね上がる。あの二通のメッセージが、悪質ないたずらだと決めつけていたのに。
警官が何か説明している。けれど、もう耳に入らなかった。
晩秋の風が車内へ容赦なく吹き込むのに、寒さは感じない。代わりに、背中に冷たい汗がじわりと滲んでいく。
助かった――。
その実感が胸を強く叩いた瞬間、ようやく我に返った。気づけば警官はすでに立ち去っている。
竹内葵は路肩に車を寄せ、スマホを取り上げてメッセージ画面を開いた。指先で文字を打つ。
「あなたは誰? どうして桜木通りで多重追突が起きるって分かったの?」
送信した直後、システム表示が弾ける。
「メッセージを送信できませんでした」
もう一度、今度は落ち着いて打ち直して送る。結果は同じ――送信失敗。
なら、と発信してみる。
だが、呼び出し音は鳴らない。画面に出たのは、無機質な四文字だった。
「発信失敗」
どういうこと?
メッセージも送れない、電話もつながらない。
眉をひそめた、そのとき。庄司優斗から着信が入った。
「葵、あとどれくらいで着く?」
受話口の向こうの声は、低く穏やかで心地いい。山あいを抜ける風みたいに、胸に溜め込んだものをすっと消してくれる。
「桜木通りのほうで事故があって、迂回しないと帰れないの」
「事故? 大丈夫か? 怪我してないか? 今どこにいる、迎えに行く」
竹内葵は小さく笑った。
「私は平気。すぐ帰るよ」
庄司優斗はなおも心配して、いくつも念を押した。
竹内葵はメッセージのことはひとまず脇に置き、車を出して遠回りで家へ向かった。
帰宅すると、キッチンから湯気と一緒に、炊きたての米と料理の香りが漂ってきた。靴を脱いだ瞬間、エプロン姿のすらりとした背中が姿を現す。
白いシャツに黒のスラックス。長い脚。整った顔立ちに、くっきりした輪郭。金縁の眼鏡の奥には、温かく柔らかな眼差し――けれど今は、焦りが滲んでいた。
「本当に怪我してない?」
竹内葵はくるりと一回転してみせ、強めに言う。
「ほんとに大丈夫。帰り道で、警官が止めて通してくれなかっただけ」
庄司優斗は上から下まで確かめるように見て、ようやく息を吐いた。
「無事でよかった。電話切ってから、料理する気がどっか行った」
「なんで料理なんて。外で食べればいいのに。何時間も飛行機乗ってきたんだから、休まなきゃ」
着替える暇もなかった服装を見て、竹内葵は唇をきゅっと結ぶ。目元が水みたいに柔らかくなる。
庄司優斗は笑った。
「疲れてないよ。機内でも休めたし。それに今日は結婚記念日だろ。P市のニブルタイの展覧会、一緒に行けなかったのは俺の心残りだ。せめて、葵の好きなものをいくつか作って埋め合わせさせて」
竹内葵の知る庄司優斗は、名門の出で、背が高く、見目もよく、性格は優しく気が利く。細やかで、ロマンチストで、しかも一途。
煙草も吸わない、酒もほとんど飲まない。感情の起伏も少なく、料理もできて、人の痛みに寄り添える。
付き合って三年、結婚して三年。彼はいつも、彼女に手を尽くしてくれた。
家には家政婦がいるのに、彼はよく台所に立って、彼女の好きな料理を作る。彼の立場ならやらなくてもいいことまで、平気でやってしまう。
竹内葵は、彼の欠点を見つけられない。
彼の前に歩み寄り、腰に腕を回して胸に顔を埋める。目を閉じ、心からこぼした。
「どうして、そんなに優しいの」
庄司優斗は愛おしげに後頭部を撫で、笑いを含んだ声で言う。
「ばか。お前は俺の奥さんだろ。お前に優しくしなくて、誰にするんだよ」
しばらく抱き合ったあと、庄司優斗が背中を軽く叩き、こめかみにキスを落として宥める。
「コンロ、火つけっぱなしなんだ。先に上で着替えて、手洗っておいで。腹減ってるだろ? あと二品で食べられる」
竹内葵は腕の中から離れ、頷いて二階へ上がった。
庄司優斗は骨の髄までロマンチストだ。毎年、結婚記念日には形を変えて驚かせてくれる。
今年は予定が狂った。それでも、驚きは用意されていた。
彼女が階下へ戻ると、テーブルにはキャンドルと花が飾られ、貝殻モチーフのダイヤのネックレスが置かれている。
庄司優斗が自ら首元にかけ、優しい目で見つめた。
「買うときから思ってた。絶対似合うって。やっぱり、ぴったりだ」
竹内葵は礼を言い、今度は自分が用意していた腕時計を差し出す。
「この時計、あなたにも似合うと思う」
「ありがとう、葵。葵が選んでくれたなら、何でも嬉しい」
庄司優斗が彼女を抱き寄せ、甘い記念日の締めくくりへと進もうとした瞬間、竹内葵はそっと制した。
「生理、来ちゃった」
「え? あと一週間じゃなかったか?」
竹内葵は顔を上げる。
「私、周期はずっと正確なの。ずれても一、二日くらい」
庄司優斗は一瞬固まり、彼女の首筋に顔を埋めて笑った。
「酒のせいだな。俺が勝手に忘れてた」
竹内葵は深く気にしなかった。本当に、酒が入って勘違いしたのだと思った。
――三日後までは。
追突事故のあと、沈黙していたあの番号が、再びメッセージを送ってきたのだ。
「ホテル・錦 今夜9時 1408号室 庄司優斗と新井新菜」
