第2章 浮気した?
竹内葵は、そのメッセージの文字列を見つめたまま、ふっと動けなくなった。
一文字一文字は読める。なのに、ひとつの文として並んだ瞬間、途端に見知らぬ言葉みたいに感じられる。
――前者は夫。後者は親友。
葵が庄司優斗と出会ったのは大学だった。
当時の彼の追い方は、まさに大騒ぎだった。花束、朝食、ぬいぐるみ。葵の友だちにまでミルクティーを奢って回り、学内中が「庄司優斗がどれだけ葵を好きか」を知っていた。どれだけ本気で、どれだけ深く想っているのか。
それだけじゃない。葵のためなら、どこまででも無茶ができる人だった。命だって投げ出しかねない――そう思わせるほどに。
そして何年経っても、彼の葵への態度は変わらなかった。最初から最後まで、ずっと同じ温度で。
新井新菜は大学の同級生で、二年間のルームメイト。気づけば、何でも言い合える親友になっていた。
葵と庄司優斗の恋の始まりから終わりまでを、いちばん近くで見てきたのも新菜だ。
けれど新菜は、庄司優斗のことを基本的に気に入っていなかった。何をしても鼻につく、という感じで。
結婚式の日には、目を赤くして庄司優斗に釘を刺したくらいだ。
「葵を泣かせたら、絶対に許さないから」
――なのに。
普段、そうそう顔を合わせない二人が、ホテルで待ち合わせて、同じ部屋にいる?
理解できない。
けれど、葵だって馬鹿じゃない。
これはつまり、庄司優斗が新井新菜と――浮気している、ということだ。
でも……ありえない。
「浮気」なんて言葉を、葵は庄司優斗に一度だって当てはめたことがなかった。
あんなに愛してくれて、甘やかしてくれて、大事にしてくれる人が、どうして裏切るの?
しかも相手が、新井新菜だなんて。
どうして?
脳裏に、ふいに前の桜木通りの連続事故のことがよぎる。
心臓が勝手に、どくん、どくん、どくん、と暴れだす。次の瞬間、胸を突き破って飛び出してきそうなほどに。
その短信のせいで、午後の時間は異様に遅く進んだ。葵にとっては、ただの拷問だった。
何度も何度もスマホを手に取り、時刻を確認する。
そして夕方。庄司優斗からLINEが届いた。
「ごめん、葵。会社で急にトラブルがあって、俺が対応しないといけなくなった。晩ごはん、一緒に食べられない。映画も明日にしない?」
葵の胸が、ひゅっと縮む。
今夜は、フレンチで食事をして、そのあと新作映画を観に行く――そう約束していた。店は昨日のうちに予約済みで、チケットも一緒に買ってある。
いきなり、胸の上に大きくて重い石を置かれたみたいに息が詰まった。
庄司優斗は、言ったことを守る人だった。
自分の口から出した約束は、必ず果たす。いつだって。
――それが、いつからだろう。今年? それとも……去年?
少しずつ、彼は約束を破るようになっていた。理由と、言い訳を添えて。
葵はそのLINEに返事をしなかった。
ぐちゃぐちゃの心のまま、八時半まで待ち、バッグと車の鍵を掴んで短信に書かれていたホテル・錦へ向かった。
フロントでスタッフに尋ね、そのままエレベーターで14階へ。
1408号室の前に立ち、スマホで時刻を確認する。
21時03分。
インターホンを押そうとした指が、宙で止まった。
胸の奥の緊張が、波みたいに膨らんで、四肢の隅々まで満ちていく。
……大丈夫。
葵は一度、深く息を吸い、無理やり落ち着かせてから、インターホンを押した。
ピンポーン。
鳴ってから十秒ほど。内側から扉が開き、嬉しそうに笑う顔が現れる。
見慣れた顔。
新井新菜。
覚悟していたはずなのに、葵は一瞬、言葉を失った。杏色の瞳の奥で、きらきらしていたものが、ぽつぽつと消えていく。
葵が静かなのに対し、扉の向こうの新菜は、顔に浮かんでいた喜びを一気に引っ込め、代わりに焦りを滲ませた。
黒いシルクのキャミソールワンピース。白く綺麗な首筋と鎖骨が露わで、布の下の輪郭がふわりと透ける。胸元の谷間は、目を奪うほどはっきりしていた。
清純そうな可愛らしい顔に、薄い化粧。切れ長の目が揺れて、清楚なのにどこか艶っぽい。
男じゃなくても、思わず見惚れてしまう。
新菜は胸元を押さえ、気まずそうに笑って、慌てを隠すように自然な口調を作った。
「葵、どうしてここに?」
葵は新菜の些細な表情の揺れを見逃さなかった。
全身の血が、冷たい底なし沼をくぐったみたいに冷え、震えがくる。
心臓も、何かにぎゅっと掴まれて引き裂かれるように痛い。
バッグを握る手に、そっと力を込める。顔には出さず、さりげなく室内を一瞥してから、眉を上げて曖昧に問い返した。
「……新菜こそ。これは?」
新菜の体が、ぴくりと固まる。唇がもごもご動き、視線が泳いだ。
「わ、私……えっと。実は、彼氏ができたの」
彼氏?
葵の知る限り、新菜は大学時代に二度恋をしている。最後の恋は三年近く続いたけれど、相手が家の都合で海外へ行き、遠距離になって三か月も持たずに終わった。
綺麗な子だから、その後も言い寄る男は多かった。それでも新菜は、誰とも付き合わなかった。
葵はずっと、あの元彼を忘れられないのだと思っていた。
けれど、長年の付き合いだ。今の反応と、微妙な表情の動きだけでわかる。
――嘘だ。
葵は、ちょうどいい驚きと喜びを顔に乗せる。
「いつの話? やっと吹っ切れたんだ」
新菜は照れたふりで身をよじる。
「いつまでも過去に縛られてても仕方ないし……それで、試してみようかなって。最近、ちゃんと付き合うことになったばかりで。年休が終わったら葵に言おうと思ってたんだけど……」
葵は笑って頷く。
「それでいいよ。もう何年も経ってるんだし、そろそろ手放さなきゃ」
新菜も笑ったが、顔に一瞬だけ疑いが走る。
「それでさ、葵。どうしてここに――」
葵はその言葉を無視して、好奇心と野次馬根性を全面に出した。
「で、彼は? 見せてよ。いったい誰がそんな腕前で新菜を落としたの。ていうか、シルクのキャミまで着て、気合い入りすぎじゃない? そんなの、男なら一発で骨抜きでしょ」
新菜の言う「彼氏」が、庄司優斗なのか。
中にいるのか。
もし、いるなら。
自分はどう向き合えばいい? 何を言えばいい?
考えたくないのに、考えてしまう。指先が白くなるほど力が入り、心臓が暴走する。喉元までせり上がってきそうな鼓動。
「もう、やだ!」新菜は照れたように葵の手をぱしっと払い、懇願するように言った。「まだ来てないの。さっき、彼だと思って開けちゃった。葵、からかわないでよ」
開けた瞬間の、あの嬉しそうな顔。
――つまり、新菜が待っている相手は、本当にまだ来ていない。
胸の奥がざわつくのに、なぜか、押しつぶしていた重石が少しだけずれた気がした。
今はまだ、向き合う覚悟ができていないのかもしれない。
葵は笑顔のまま言う。
「わかった。じゃあ邪魔しない。今度、時間あるときに一緒にご飯でも」
そう言って背を向けた、そのとき。
新菜が慌てて葵の腕を掴んだ。
「待って。葵、まだ言ってない。どうしてわざわざここに来たの?」
葵は足を止める。
ここに突然現れた自分が怪しまれるのは当然だ。だったら、曖昧に誤魔化すより、はっきり言ったほうがいい。相手の反応も見られる。
振り返る頃には、顔から痛みを引っ込めていた。
「浮気の現場、押さえに」
「……え?」新菜の瞳が大きく揺れる。「だ、誰の……?」
「誰って。庄司優斗に決まってるでしょ」
新菜の顔から血の気が引き、固まる。胸を針で刺されたみたいに息が止まった。
「庄司優斗が……相手は誰?」
葵は新菜を横目で見て、首を振る。
「知らない。仕事終わりに電話が来てね。庄司優斗が女の人とこのホテルの14階に入るのを見たって。部屋まではわからないって言うから、適当に二、三部屋ノックして……怒鳴られた」
葵が隣の部屋のドアを指で示すと、新菜はほっと息を吐いた。
そして、憤ったように声を荒げる。
「ひどい! 私、庄司優斗のこと嫌いだけど……客観的に見ても、あの人は葵のこと本気で愛してる。命みたいに大事にしてるじゃない。今までの態度だって、誰が見てもわかる。浮気なんてするわけないよ。絶対、誰かが嘘ついて、夫婦仲を引っ掻き回そうとしてるんだよ」
そう言いながら、新菜は急に語気を強めた。
「でも、もし本当に裏切ってたら……私が真っ先に行って、あいつの足へし折るから!」
「だよね。たぶん、嘘だと思う」葵は柔らかく笑い、瞳の奥に沈んだ冷たさを隠したまま、どこか揶揄うように言った。「帰ったら優斗に調べさせる。じゃ、私は行くね。……楽しんで」
新菜は頬を赤くして、拗ねたように葵を睨む。
葵の背中が廊下の向こうへ消えるまで見送ると、新菜の笑みはすっと消えた。
握りしめた拳が、白くなる。
