第3章 目の当たりにする

竹内葵がホテルを出る足取りは、鉛のように重かった。

エレベーターに乗り込んだ瞬間、全身の力がすとんと抜け落ちた気がした。

――庄司優斗は、本当に浮気しているの?

信じたくない。けれど、状況が疑えと言ってくる。

こんな偶然、ある?

庄司優斗は急に約束をすっぽかした。その一方で、新井新菜はメッセージで「ホテル・錦の14階」と告げ、しかも「彼氏」とやらと1408号室で会うと言っていた。

もし本当なら、いつから?

どうやって始まったの?

葵はホテルの外で待たなかった。自分が来たと知られたら、新井新菜が庄司優斗に連絡して、もう来るなと止めるに決まっている。

帰り道、霧みたいな小雨が降り出した。

初秋の空気は、もう冷えはじめている。

家に着くころ、庄司優斗から着信が入った。葵は出ないまま車を停め、家へ入った。

物音に気づいた庄司優斗が慌てて寄ってくる。

「どうした、こんな遅くまで残業?」

返事をする間もなく抱き寄せられた。

「ごめん、葵。今日は約束、破っちゃった」

竹内葵は、どこか麻痺していた。

――この腕で、新井新菜のことも抱いて、宥めたりしたのかな。

想像したくない。胸が痛む。

庄司優斗は彼女を覗き込み、手のひらをきゅっと握って、柔らかく言う。

「レストラン、取り直そう。明日行かない? 映画のチケットも買い直す」

叱られるのを待つみたいに眉尻を下げて、低姿勢で、真剣で、誠実で。

彼はいつもそうだった。少しでも空気が悪くなると、正しいかどうかに関係なく先に頭を下げて、葵を宥める。

六年ずっと、変わらずに。

今の葵は、怒ってはいない。ただ、頭の中も心の中も、霧がかかったみたいに茫然として、もがいていた。

「大丈夫。ご飯なんて、どこで食べても同じだよ。あなたの料理、外のお店に負けないし。映画も昨日公開したばかりだし、いつでも行ける」

庄司優斗は困ったように笑い、甘やかすような声で言った。

「君はさ、たまには俺に怒ってよ。いつもそんなに気を遣われると、余計に申し訳なくなる。もう夕飯は? 何か作ろうか」

顔立ちは整っていて、性格は穏やかで、気遣いも細やか。

それなのに――彼が葵を愛している姿と、葵を裏切る姿が、どうしても重ならない。

現実味が、ない。

刹那、二人の思い出が次々と脳裏をよぎった。

付き合って一年目、彼は三十分も花火を上げて、ちょうど零時に合わせて大声で誓った。

「葵、俺が世界で一番幸せな女にする!」

それから毎年の年越し、彼は違うサプライズを用意してくれた。

冬に葵が高熱を出したときもそうだ。車で病院へ向かう途中、積雪で道が塞がれた。彼は迷わず葵を背負い、二キロ近く歩いた。結果、彼自身が凍えて体調を崩し、退院まで一週間以上かかった。

彼は猫の毛にアレルギーがあるのに、葵が好きだからと、二十五歳の誕生日にオッドアイのラグドールをプレゼントしてくれた。家で飼っていた間、彼はくしゃみと鼻炎に悩まされ続け、見かねた葵が、新井新菜のところへ預けた。

けれど一年も経たず、その猫は伝染性腹膜炎になり、半月ほど治療しても助からなかった。

そんな数々の「してくれたこと」が、スライドショーみたいに頭の中で再生される。

葵はずっと、彼は自分を深く愛していると信じていた。

彼がいたから、恋は美しくて清らかなものだと、心の底から思えた。

それが汚されたとき、どれほど惨めで滑稽なのか――考えたこともなかった。

自分がそれに直面したとき、どんな気持ちになるのかも。

庄司優斗は葵がぼんやりしているのを見て、腰を抱く手に少し力を込め、低く尋ねた。

「どうした? 葵」

「夕飯は食べたから、平気」我に返り、胸の奥で尖っていた苦さを押し込める。唇をもごもごと動かし、声をなるべく整えた。「ちょっと、考えてたことがあって」

「うん?」

「今日、帰りが遅くなったのは、途中でホテル・錦に寄ったから」

バッグから一枚のメモを取り出す。

「この番号から電話が来て……あなたが女の人を抱いてホテルに入るのを見たって言われたの。通り道だったから、つい」

帰り道で理性は少しずつ戻ってきていた。

でも、一度疑いの種が蒔かれたら、あっという間に育っていく。茂った枝葉が光を遮り、心の中に残るのは冷たい陰だけ。

それでも葵は、庄司優斗に期待してしまう。

全部、誤解であってほしい。

できるなら、彼のほうから説明して、打ち明けてほしい。

メモに書いたのは、メッセージを送ってきた番号だ。

葵は数日前に調べた。存在しない番号だった。

なぜ調べられないのかは分からない。でもそれが、庄司優斗を探る武器になる。

もし――もし二人が、本当に自分を裏切っていたら?

庄司優斗は眉をひそめ、メモを受け取って目を落とした。

「この人、知り合い?」

「知らない」

「男? 女?」

葵にも分からない。届いたのはメッセージだけだ。

唇を噛み、苦し紛れに作った。

「男。聞いた感じ、K市の訛りだったと思う。若くはないけど……三十歳くらいかな」

庄司優斗は険しい顔でメモをしまい、言った。

「これは俺に任せて。ちゃんと調べる」

そう言いながら、また葵を抱き寄せ、低く問う。

「葵、俺のこと信じてる?」

演技が上手すぎるのか、それとも本当にやましいことがないのか。

葵は彼の顔から、何ひとつ異変を読み取れなかった。

落ち着いていて自然で、驚きさえ一瞬で消える。

葵は彼の胸に手を当て、真剣な顔を作った。けれど息が、少し震える。

「……私を裏切ったりしない?」

目を逸らさず、瞳の色の揺れさえ見逃したくなかった。

庄司優斗は一瞬きょとんとして、それから目元に笑みを滲ませ、葵の指を取って自分の頭を指さした。

「ここ、何だと思う?」

「何?」

「みんな言うんだよ。俺の頭の中は『竹内葵ばかり』だって」

低く笑い、葵の手の甲に敬虔みたいに口づける。声は掠れて、甘い。

「考えてみたら、確かにそうだ。葵、この先ずっと、俺が愛するのは君だけ。ほかに回す愛なんて、もう残ってない」

優しい言葉が重なるほど、葵の胸はますます苦くなる。

何度も聞いてきた甘い台詞。昔は幸せで、蜜みたいに感じたのに。

今はどうして、こんなにも薄っぺらく聞こえるのだろう。

彼の愛は、本当に誰にも分けられない?

その言葉を、新井新菜に言ったことはない?

「うん。あなたは私にすごく優しいし、すごく愛してくれてる。だから信じる」

声も心も、ふっと空洞になった気がした。

葵は笑って顔を上げる。瞳には幸福の弾む光――けれどどこか、掴めない蜃気楼みたいな揺らぎ。

「ねえ、覚えてる? 結婚した年、神社で立てた誓い」

庄司優斗は少しだけ目を見開き、ゆっくり頷く。

「もちろん覚えてる」

「うん。『真心を踏みにじった人は、一万本の銀針を飲み込む』って言ったよね。だから私、そんな脅しみたいな話、信じない」

結婚の二日前、神社へお礼参りに行ったとき。彼が葵の手を引いて、神様に向かって言った言葉だ。

「うん」

庄司優斗は葵を胸に抱き込み、溢れそうな醜さを素早く押し隠した。優しい声に、過剰なほどの深情を注ぎ込む。自分も、葵も、催眠にかけるみたいに。

「葵、愛してる。君を裏切るなんて、できるわけがない。俺たち、白髪になるまで一緒だ」

葵は何も言わず、抱かれるままにしていた。

そうだ。彼は葵を愛している。葵を悲しませるはずがない。

誓いも、愛し合った日々も、昨日のことみたいに近いのに――薄い霧が一枚、間に挟まって、もう触れられない。

本当に、白髪になるまで?

揺るがなかった確信が、確かに揺れている。

鼻先に、いつもと同じ淡い松木の香り。

なのに心の底から、今までにない拒絶感が湧き上がった。

胸のざわめきを鎮めて、葵は腕の中から抜け出し、笑顔を貼りつける。

「もう、熟年夫婦なんだから、告白はいいよ。上でシャワー浴びてくる」

庄司優斗は目尻を柔らかくして、葵の鼻を軽くつまんだ。

「どこが熟年夫婦? 結婚してまだ三年だろ。三年どころか、三十年、四十年先も、俺は愛してるって言う」

葵はくすっと笑って、彼の腕を軽く叩き、拗ねたふりで睨む。

「ふざけてばっか。仕事も残ってるし、先に寝てて。待たなくていい」

「明日でいいだろ。俺たち、ずっと……」

庄司優斗が引き留める。穏やかな瞳に、薄い欲が差した。

合図だ。

葵は彼が何を求めているか分かった。心の棘が、拒めと囁く。

わざとため息をついて言った。

「明日のほうが、もっと忙しいよ」

庄司優斗は知っている。美術館は来月、著名な若手女性画家の個展を準備中だ。館長である葵は、長い間残業続きだった。

彼は仕方なく手を放す。

「分かった。あんまり遅くなるなよ。体、気をつけて」

葵は「うん」とだけ返し、まっすぐ書斎へ向かった。

ドアを閉めた瞬間も、張り詰めた感情がまだ体に絡みついている。

そのとき、スマホの通知音が鳴った。

葵はびくりとして、慌ててバッグから取り出す。

また、あの見慣れた番号。

「ル・ラント邸宅街11号棟は、庄司優斗が夫婦の共有財産から新井新菜へ贈与したもの。価値は2700万」

呼吸が止まった。

目が、動かない。

ル・ラント邸宅街は、今年の五月に分譲が始まったばかりの高級戸建てエリアだ。立地の良さと凝ったデザインで知られ、工事が半分を過ぎたころには、ほとんどが予約で埋まっていた。

もし本当なら――二人は去年から……?

唇を噛む。仕事どころじゃない。

不安と焦りが胸の中をぐちゃぐちゃにかき回し、頭も心も収拾がつかない。

そのまま眠れなかった。

空が白みはじめるころ、ようやく浅い眠りに落ち、目が覚めたときには八時半を回っていた。

階下へ降りると、庄司優斗は朝食を終え、葵が起きてくるのを待っていた。

葵は驚く。

「まだ会社行ってないの?」

「起きるの遅かっただろ。ちょっと心配で。昨日も遅くまで仕事してたのか?」

近づいてきて、目いっぱいの心配を浮かべる。

「顔色、悪いぞ」

「ううん。最近ちょっと眠りが浅いだけ」

「じゃあ、朝ご飯食べたらもう一回寝たら? 午後から美術館に行けばいい」

「そうする」葵は笑い、腕時計を見た。「もう九時近いよ。あなたこそ、早く会社行って」

庄司優斗は出る前にも念を押した。

「ちゃんと休めよ。いいな?」

葵は彼の背中を見送った。

ゆっくり朝食を済ませ、美術館へは向かわず、車でル・ラント邸宅街へ行った。

あの家が本当に新井新菜名義なのか、確かめたかった。

けれど車を停める前に、十数メートル先に見覚えのある黒いカイエンが目に入った。

数十分前、庄司優斗が家から乗って出ていった車と、まったく同じ。

そして車の傍らに、熱っぽく抱き合い、唇を重ねる二つの影。

葵の瞳孔が縮み、脳が真っ白になった。

距離があって顔までははっきりしない。けれど庄司優斗が着ている青いコートだけは、どうしても見間違えようがない。

去年の誕生日に、葵が贈ったものだ。

あのメッセージが疑いと不安を生んだだけだとしたら、この光景は――死刑宣告だった。

容赦なく葵を深淵へ突き落とす宣言。

それどころか、じわじわと肉を削ぐ刃が、魂の奥を何度も何度も切り刻んでくる。

しばらくしても二人は離れない。

葵は握りしめていた拳をほどき、鼻をすすり、スマホを取り出してカメラを開いた。

ズームする。

見慣れた横顔が二つ、画面に映り込む。

失望が、冷たい涙になって、ぽろぽろと落ちた。

庄司優斗と、新井新菜。

数十分前まで家で葵を気遣い、心配していた男が――今は葵の贈ったコートを着て、別の女を抱き、離れがたいほど深く口づけている。

胸の奥に重い繭が詰まったみたいで、息が狭い箱に閉じ込められた虫みたいに擦れていく。残るのは、窒息と圧迫だけ。

葵は引きつった口元で笑おうとして、うまくいかなかった。

震える指で、むちゃくちゃにシャッターを切る。写真を確認する気力もない。

その瞬間、ただここから逃げたかった。

いちばん近しい二人に裏切られるって、どんな味がするんだろう。

葵には言葉にできない。考えるのも怖い。

ただ胸のどこかが酸っぱくて、膨れて、細い痛みが群れになって押し寄せ、息ができないほど苦しい。

結局、自分だけが馬鹿みたいに蚊帳の外で、ひとりで信じていたのだ。

一人は本気で愛してくれていると。

もう一人は本気で自分の味方だと。

どうして、何ひとつ気づけなかったのだろう。

三年前、庄司優斗にプロポーズされた日も、今日みたいな晴天だった。

熱気球がゆっくり上がり、途中で見下ろすと、1314520本の薔薇で作られた文字が見えた。

竹内葵、僕と結婚してくれますか?

葵はその場で立ち尽くした。

熱気球の上で庄司優斗が片膝をつき、リングケースには2カラットのダイヤが眠っていた。あの深くて優しい目。

彼は言った。

「葵、俺と結婚して。俺は一生、君を大事にする。絶対に、涙を一滴も流させない」

恋人として三年、夫婦になって三年。

彼は葵を丁寧に守ってきた。

去年、母が事故で亡くなったとき以外、葵は泣いたことがなかった。

葵にとって、この六年は幸福で、甘くて、尽きない喜びだった。

二人を知る誰もが言う。あの夫婦は仲睦まじく、愛し合っていると。

それが、今は何?

葵は自嘲するように笑い、涙はますます止まらなくなる。視界が滲んで前が見えず、仕方なく路肩に車を寄せて停めた。

ピン、とバッグの中でスマホが鳴った。

心臓を掴まれたみたいに、胸がきゅっと縮む。

画面を開く。

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