第4章 千玉万年筆

瑞行法律事務所?

早瀬信祐?

竹内葵はきょとんとした。弁護士業界なんて普段まるで気にしていない。だからこそ、胸の奥に小さな疑問と好奇心が芽生え、検索窓に「早瀬信祐」と打ち込んだ。

個人の紹介ページを開くと、まず目に飛び込んできたのは、端正すぎる証明写真だった。

スクロールすると経歴が続く。早瀬信祐、29歳、K市出身。K市の一級弁護士。K大学法学部卒。海外の名門大学法学部で博士課程に在籍。帰国後、瑞行法律事務所を設立し、教授弁護士として名を連ねる。専門は民事訴訟、刑事訴訟、国際金融貿易――。

若くして成功を掴み、法曹界では知らぬ者のない存在。しかも、これまで無敗。

切れ味鋭く、それでいて沈着。冷ややかで寡黙だが、口を開けば要点を一突きにしてくる。狙うのはいつだって相手の急所――心臓と肺のあたりだ。

あだ名は――剥ぎ取りの早瀬。

要するに、こいつとやり合えば、どんな相手でも皮を一枚剥がされる。

下には、彼が担当した案件の一覧が並んでいた。

その中に、離婚訴訟の事例がある。状況は、彼女のそれとよく似ていた。夫が不倫し、婚姻中に共有財産を妻に隠して一方的に不倫相手へ贈与。総額五千万相当の家や車、バッグや宝飾品――。

結末は、夫が文字どおりの丸裸で放り出され、不倫相手は六千万を全額返還。さらに慰謝料まで支払うことになった、とある。

竹内葵は読み終えたまま、動けなくなった。

画面の文字が、じわじわと滲んでいく。視界が揺れて、輪郭がぼやける。彼女は鼻で笑い、口角をわずかに引きつらせた。

心臓と肺を、何か硬いものでぐっと押し潰されているみたいだ。痛くて、息が吸えない。

葵は胸元を押さえた。

――そうだよね。ここまで来たら、早めに手を打つべきだ。

片目をつぶって、知らないふりをして、このまま夫婦を続ける?

無理だ。

できるはずがない。

この六年、笑えるほど滑稽だ。

さっき、ル・ラント邸宅街の門の前で見た光景を思い出すだけで、口の中に汚れた雑巾を突っ込まれたみたいに吐き気がする。

離婚するだけじゃ足りない。新井新菜が飲み込んだ家も金も、きっちり一円残らず吐き出させる。

あれは、もともと彼女のものじゃない。

ただ、離婚となれば庄司家の体面と利害が絡む。庄司家が動くかは分からないが、庄司優斗の母親、結城夏帆が黙っているはずがない。横から割って入ってくるに決まっている。

万全の準備がなければ、望む形には届かないだろう。

庄司家はK市の名門の中でも名の通った一族で、建設、不動産、テックの三分野にまたがっている。

もっとも、庄司優斗の立場は微妙だった。彼は庄司家の隠し子で、中学の頃になってようやく母子そろって本家に迎え入れられた人間だ。

以来ずっと、正妻と、その正妻が産んだ二人の息子に抑え込まれてきた。

それでも結城夏帆は、耐えることも、押し返すこともできる女だった。美貌もあり、手もある。

二年前、彼女の後押しで庄司優斗は庄司グループ傘下の建設会社の執行役員に就任し、ようやく家業に触れ始めたのだ。

長い沈黙ののち、竹内葵は手の甲で涙を拭った。胸の痛みを押し込み、深く息を吸う。化粧を直し、腫れた目元が目立たないよう整える。

ナビを開き、瑞行法律事務所へ向かった。

だが、案の定、空振りだった。受付は申し訳なさそうに頭を下げる。

「申し訳ございません。ご予約がない方はお通しできない決まりでして」

「……じゃあ、いつなら空いてますか」

葵が唇を結んで問い返すと、受付はさらに困った顔になる。

「重ねて申し訳ございません。早瀬弁護士はスケジュールがすでに埋まっておりまして、少なくとも今年は新規のご依頼をお受けしない見込みです。よろしければ、当事務所の別の弁護士をご紹介いたしましょうか?」

竹内葵は言葉を失った。

早瀬信祐ほどの弁護士なら、忙しいのは当然だ。彼にこだわっているわけではない。けれど、あのメッセージは名指しだった。

葵は薄く笑う。

「ありがとうございます。少し考えます」

事務所を出て、さてどうするかと思った瞬間、また通知が弾けた。

「栄慶質店へ行って、千玉万年筆を買い戻して。それは今、早瀬信祐が担当している刑事訴訟の重要な物証」

竹内葵は目を見開いた。

千玉万年筆なら知っている。Starrism国際万年筆株式会社が今年のバレンタインに出した、玉を軸に用いた限定モデルだ。

その日、庄司優斗が「欲しい?」と訊いてきた。もちろん欲しかった。けれど限定で、予約が取れなかった。

葵はすぐに文字を打つ。

「あなた、いったい誰? どうしてそんなことまで知ってるの?」

送信――。

しかし画面に表示されたのは、無情な一文だった。

「メッセージの送信に失敗しました」

竹内葵は眉を寄せる。心臓が、理由もなく速く打ち始めた。

調べても出てこない相手。こちらからは送れないのに、向こうからは届く。

どういうことなのか、考えても考えても答えが出ない。

栄慶質店はB市の骨董街の向かいにあった。間口は小さい。葵はさほど迷わず辿り着く。

店に入ると、店主がすぐに寄ってきた。

「いらっしゃいませ。今日は何をお探しで――」

商品の説明を始めたが、葵はほとんど耳に入れず、まっすぐカウンターへ向かった。

二段目。そこに、千玉万年筆があった。

細い指でそっと示す。

「それ、見せてください」

店主は手袋をはめ、丁寧に取り出して差し出した。

この万年筆は特殊で、キャップ上部に不可視の数字が刻まれている。Starrismの公式サイトで真贋確認ができ、所有者情報の閲覧や変更も可能だ。

葵は一通り目を走らせ、顔を上げた。

「いくらですか」

店主は商売人だ。彼女の身につけているものが一流だと見て取ると、頬に皺が寄るほど笑い、目がぎらりと光った。

「お嬢さん、見る目がおありで。こちらは限定の絶版でして、入手経路もまったく問題なく――」

「値段だけ言ってください」

店主は一瞬詰まり、観念したように言う。

「十万です」

「……いくら?」

葵は店主をまっすぐ見た。視線が刺さる。

店主はなぜか落ち着かなくなり、気まずそうに咳払いをする。

「その……本気でお求めなら、少しは……。お嬢さんもサバサバしてそうだし、一口でいきましょう。八万!」

葵は黙ったまま。

三十秒ほど待っても反応がないと、店主は胸を叩いて言い切った。

「これは本当に良心的な値段です。こっちだって仕入れが安くない。赤字は無理でしょう?」

葵は言った。

「元箱、見せてください」

店主は額を掻き、まだ余裕の顔で答える。

「持ち込まれた時点で箱はなくてですね……。ですが品は間違いなく本物です。今ここで確認していただいて構いません。偽物なら十倍返し。うちは十年以上やってます、信用が命ですから!」

葵は偽物を疑っているわけではない。ただ――。

「箱がないなら、この値段は……」

高すぎる。

店主もそれは分かっている。歯を食いしばり、値を下げた。

「六万八千円。これ以上は無理です……」

「五万で。お互い一歩ずつ引きましょう」葵は淡々と言う。「可能なら売買契約書も作ってください」

店主はなおも粘る。

「五万六千円。数字の縁起もいいし――」

葵は数千円にこだわらなかった。小さくうなずく。

QR決済でさっと支払い、店主が契約書を作るのを待つ。署名を済ませると、彼女は万年筆を受け取り、質屋を出た。

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