第5章 夜の生活はうまくいっているか?

美術館へ戻った頃には、もう昼前だった。竹内葵は昼食を取る暇もなく事務室に駆け込み、真っ先にStarrismの公式サイトを開いた。

この万年筆の登録上の所有者は森本美月。いわゆる名媛系のインフルエンサーだ。

だが三か月余り前、自宅で腹部を刺されて死亡。ニュースは連日大きく報じ、さらに二か月前には警察が「犯人」を逮捕している。

森本美月の恋人、加賀裕太。

加賀裕太はK市の上流階級では名の知れたプレイボーイで、二人は「交際」というより、森本美月が彼に飼われている籠の鳥――そう言ったほうがしっくりくる。

証拠のつながりは一応揃っており、身柄を押さえてから大して時間もかからず事件は終結。検察と裁判所へ送致された。

いま加賀裕太の弁護人を務めているのが、早瀬信祐だ。

来週には、この事件の第一回公判が開かれる。

早瀬信祐には、どうしても必要だった。あの「完璧なはずの証拠のつながり」に綻びがあると示す、強い材料が。現場には第三者がいた可能性――それを裏づける何かが。

立ち上がって外へ出ようとした瞬間、携帯が短い通知音を鳴らした。

「早瀬信祐はいまK市男子刑務所。急いで探さなくていい。午後四時に瑞行法律事務所へ」

その文面を目にした途端、さっきまで胸の奥でざわついていた焦りが、嘘みたいにすっと静まった。

葵はその一行を見つめたまま、しばらく動けない。

送ってきた相手は、何もかも知っている。しかも、先のことまで見えているみたいだ。

――ありえない。

午後四時。永井杏奈に仕事の引き継ぎを手短に済ませ、バッグと車の鍵を手に美術館を出た。車を走らせ、再び瑞行法律事務所へ向かう。

応対に出たのは、午前中と同じ受付だった。

覚えがあったのだろう、彼女は「もう決めてくださった」とでも思ったらしく、にこやかに言いかける。

「こんにちは。当事務所にはほかにも優秀な弁護士が――」

葵は柔らかく笑って遮った。

「ありがとうございます。でも、早瀬弁護士にお願いしたくて。いま、事務所にいらっしゃいますか?」

受付は困ったように眉を寄せた。

「早瀬弁護士は外出中でして……予定が本当に詰まっていて、なかなか――」

言葉がふっと途切れ、視線が入口のほうへ移る。

「早瀬弁護士」

葵も反射的にその視線を追った。

目に飛び込んできたのは、すらりと背の高い男の姿。灰青のスーツを端正に着こなし、均整の取れた体躯に、広い肩と締まった腰。切れ長の目は深く沈み、鼻梁は高い。輪郭の線は冷たく硬質で、整いすぎるほど整っている。

氷峰の断崖に咲く、清冽な雪蓮。

高貴で淡いのに、触れてはいけない距離がある。

ネット上の写真よりずっと格好いい――のに、なぜだろう。近寄りがたい。正面から歩いてくるだけで、他人を寄せつけない圧がある。

男は淡く頷き、冷えた視線を葵の顔に一瞬だけ滑らせると、何事もなかったように視線を引き、通り過ぎようとした。

葵は我に返り、慌てて声をかける。

「早瀬弁護士」

早瀬信祐は足を止め、振り返った。目には何の感情も浮かんでいない。

受付が何か言い添えようとしたが、その前に葵が歩み寄る。彼の半歩手前で止まり、澄んだ瞳でまっすぐ見上げた。紅い唇がわずかに開く。

「お渡ししたいものがあります。森本美月さんの件で」

小さな声だったが、十分に届いた。

早瀬信祐の瞳が鋭く締まり、冷たい波紋が走る。低く、静かな声。磁力のある響きの奥に、わずかな攻撃性が滲んだ。

「君は彼女の何だ?」

葵は正直に答える。

「知り合いではありません。ただ、偶然これを手に入れて……早瀬弁護士のお役に立つかもしれないと思って」

早瀬信祐は、綺麗なのにどこか刃のあるその顔を見据え、言葉の真偽を測るように数秒黙った。ここが話をする場所ではない、と判断したのだろう。

「上がって」

葵は微笑み、受付に丁寧に会釈して礼を述べると、早瀬信祐の後ろについてエレベーターへ入った。

事務所は五階建て。彼の執務室は最上階らしい。

扉の前で、葵は銘板を目にした。「早瀬信祐」。その下に「主任弁護士 執務室」。

中へ入るなり、早瀬信祐は短く言った。

「座って」

広く、明るい。寒色を基調にした内装は、無駄がなく、堂々としていて、それでいて隙がない。

葵は必要以上に眺め回すこともなく席に着く。すぐに助手が茶を運んできた。

ひと口含むと、濃い香りが口いっぱいに広がる。視界の端で、早瀬信祐が片手でジャケットのボタンを外し、長い指を膝に無造作に置いて、葵の右斜め前に腰を下ろした。

まっすぐ見据え、低い声で問う。

「名前は?」

「竹内葵です」

それだけ告げ、葵はカップを置いた。回りくどいことはしない。バッグから万年筆を取り出し、机の上に置く。

「Starrismが今年のバレンタインに出した限定万年筆です。今朝、質屋で買い戻しました」

早瀬信祐は万年筆に視線を落としたまま、表情を読ませない。何も言わず、続きを促す沈黙だけがあった。

「公式サイトで照合したところ、登録上の所有者が森本美月さんでした。購入日は今年の2月14日、バレンタイン当日です」葵は淡々と続ける。「店主の話では、半月ほど前に持ち込まれたもので、買取の契約書も交わしていないそうです」

その言葉に、早瀬信祐の目がわずかに光った。何かに思い当たったように眉が寄る。彼はティッシュを一枚引き抜き、万年筆を直接触れないようにして持ち上げ、しばらく観察した。

やがて、ゆっくり顔を上げ、落ち着き払った葵を見据える。

声はさらに冷たく沈む。

「殺人事件に関わる可能性のある物だ。竹内さんは、なぜ警察に渡さない?」

葵はゆっくり笑った。

「事件はもう終結して、裁判所のほうへ行っていますから」それから、言葉を切り替える。「もちろん、これは投げ石です。離婚案件を、早瀬弁護士にお願いしたいんです」

早瀬信祐の指先が、万年筆を包むティッシュの上をゆっくり擦る。視線がペンから葵の顔へ移った。

目が合う。

広い執務室に、針が落ちても聞こえそうな静けさが満ちる。

葵は逸らさない。静かに見返す。

早瀬信祐はしばらく考え、万年筆を置いた。

「なぜ離婚したい?」

「夫が浮気しました」

早瀬信祐は驚いた様子もない。座り直し、さっきまでの鋭さが少し薄れる。椅子の背に体を預け、脚を組んだ。

「子どもは?」

「いません」

結城夏帆には何度か、遠回しに「早く子どもを」と言われた。男でも女でもいいから孫を抱きたいのだろう。庄司優斗の兄たちには子どもがいるが、皆、結城夏帆を露骨に避けている。そのぶん、彼女の焦りは強かった。

けれど葵は急がなかった。去年、母が交通事故で亡くなって以来、一笙美術館を任され、子どもを産み育てる余裕などなかったのもある。

いま思えば、子どもがいなくてよかった。離婚で苦しむのは、いつだって子どもだから。

「結婚して何年?」

「三年です」

「普段の関係は?」早瀬信祐が続けて問う。「夜の生活はうまくいっていた?」

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