第6章 ついでにすぎないだけ
竹内葵は言葉を失った。静かな鳳のような目がぱちりと瞬き、そこには困惑だけが浮かんでいる。
「え……な、何ですか?」
早瀬信祐は、彼女が聞き取れていると分かっていた。だから繰り返さない。そのまま淡々と続ける。
「週に何回ですか?」
葵は、自分は妙に取り繕ったり、もったいぶったりする性格じゃないと思っている。けれど見ず知らずの男と、こんなに生々しい話題をするのは、どうしたって気まずい。
しかも相手は、顔立ちは整っているのに、表情は涼しいまま。眉ひとつ動かさず――
まるで事務的に、真面目な顔で聞いてくる。
「それ、離婚の相談と関係あるんですか?」
「あります」早瀬信祐は即答した。「あなたの離婚の覚悟がどれほどか。ここへ来たのが衝動なのかどうかにも関わる」
彼は不倫が原因の離婚案件を数多く扱ってきた。多くの妻は、発覚直後のショックで相談に来る。弁護士を立てる。だが結局、夫のあの手この手の「やり直したい」に押し切られ、許してしまう。もう一度だけ、と。
早瀬は時間を無駄にするのが嫌いだった。無駄な仕事も、同じくらい。
葵は自分を理性的な人間だと思っている。庄司優斗に対して、断ち切れない情はある。けれど、他の女と夫を共有できるほど寛大ではない。
胸をえぐられるような痛みと、目に刺さるような光景――それを、どうしても見なかったことにはできない。
男なんて、盗み食いを覚えた猫みたいなものだ。一度やったら、二度目も三度目もある。
今朝、あの場面を自分の目で見ていなければ、メッセージだけではここまで決断できなかったかもしれない。
彼が正直に話してくれることを期待する余地はあった。六年も愛し合ってきた。彼の愛も、優しさも、ひとつひとつが鮮明に残っている。
彼はこの数年、「一途で誠実な男」という仮面を、骨の髄まで染み込むほど完璧に演じてきた。
――だからこそ、許せない。
騙され、裏切られ、隠される。その味は万本の剣で心臓を貫かれるみたいで、そんな目に遭ってまで愚かでいるつもりはなかった。
葵は指の関節をぎゅっと握りしめる。目尻が赤く滲んだ瞳に、揺るぎない決意が宿った。
「離婚します。あの人には、身ひとつで出て行ってもらう。浮気相手に渡したもの、全部取り返させます!」
新井新菜――その名前は、葵の心の中で重たい汚れとなってこびりついていた。
いまや彼女にふさわしい呼び方は、『浮気相手』という汚い言葉だけだ。
早瀬信祐の視線が、葵の手元に落ちる。薬指に、深く残った指輪の跡。
つい最近、外したばかりなのだろう。
彼の表情がわずかに緩む。
「証拠はありますか?」
「あります」
葵はそう言って、少し間を置いた。バッグからスマホを取り出し、今朝撮った写真を表示する。
写っている二人は、きつく抱き合っていた。庄司優斗の手は新井新菜の頭を押さえ、動画じゃなくても分かるほど、強く、深く、貪るように口づけている。
今朝、肉眼で見たものよりも、ずっと鮮明だった。
堪えていた涙が、ついにぽとりと落ちる。
葵は慌てて視線を逸らし、手の甲で乱暴に拭った。スマホを差し出し、普段は柔らかな声が、喉の奥で詰まる。
「少しぼやけてますけど……本人と、浮気相手の顔は分かります」
早瀬信祐は、彼女の瞳の底に滲む痛みを見た。視界の端で机の万年筆をかすめ、身を乗り出してティッシュを一枚引き抜き、差し出す。
葵は一瞬、きょとんとして、涙に濡れた目で彼を見上げた。
早瀬の瞳は深い。溶けない墨のように濃く、物事の表面を剥いで、幾重にも本質を探ってくるような――
なぜだろう。見つめられた瞬間、葵の胸がひゅっと縮んだ。
受け取りながら、小さく言う。
「……ありがとうございます」
早瀬は視線を戻し、スマホの写真を確認する。
「これだけですか?」
葵はティッシュを握り潰したまま、こくりと頷く。
「今のところ……これだけです」
「足りません。証拠は多いほど有利です。たとえば二人のやり取り、同居の有無、振込の記録など」
同居――。
その言葉で、葵の思考がふっと遠のく。
今年に入ってから、庄司優斗の出張は明らかに増えた。長いと六、七日。短くても一、二日。
そのうち、どれが本当の出張で、どれが嘘だったのか。
出張だと騙して、新井新菜と暮らしていた可能性は?
葵は爪を掌に食い込ませる。瞳の奥が揺れ、声が少し掠れた。
「それが揃えば……身ひとつで出て行かせられる可能性、上がりますか?」
「婚前契約は?」
「あります」
庄司優斗は隠し子とはいえ、名義の資産は少なくない。葵も同じだ。両家の利害が絡む以上、どれほど仲が良くても婚前契約は必須だった。
ただ、条件は厳密でも苛烈でもなかった。結婚して三年、二人はずっと「あなたのものは私のもの」みたいに暮らしてきた。
日々の出費どころか、株や投資信託まで混ざり合って、もう境目が分からない。そもそも二人とも、そこを細かく気にするタイプじゃなかった。
二人の結婚で、いちばん尊かったのは互いの気持ちだった。
――けれど今、その尊さは崩れ落ち、残ったのは財産だけ。
早瀬信祐は言う。
「夫婦共有財産にあたるものを、証明できる形で整理してください。隠し財産や移転がないかも確認します」
葵が把握している資産は、庄司優斗が「教えてくれた分」だけだ。
では、隠しているものは本当にないのか。
口でも行動でも平気で「愛してる」と嘘をつける男を、信じられるのか。
――信じられるはずがない。
葵が信じるのは、自分の目で見たもの。自分で調べて掴んだものだけ。
法律事務所に一時間以上いて、帰り際、葵は尋ねた。
「早瀬弁護士、LINE……交換できますか?」
連絡先があるに越したことはない。今後の質問も、いちいち足を運ばずに済む。協力関係を結ぶ上での、ささやかな合図でもある。
早瀬は彼女を二秒見てから、名刺入れから一枚抜き、差し出した。
「依頼人とLINEを交換する習慣はありません。用件は電話で」
「……」
電話でもいい。
葵は目元に淡い笑みを滲ませた。けれどそれは、どこか本心からのものではない。白く長い指で名刺を受け取る。
「ありがとうございます。これから、何かとお世話になると思います」
社交辞令を添え、名刺をバッグにしまう。
早瀬信祐は、箱の中の白玉のような万年筆へ視線を落とし、迷うように口を開いた。
「この万年筆は、森本美月の件で重要な証拠になる可能性があります。明日、裁判所へ提出する予定で……」
つまり――戻ってこないかもしれない。
だが葵は、最初から持ち帰るつもりなどなかった。メッセージの指示通り、万年筆を口実に彼に会いに来ただけだ。
葵は薄く笑う。
「森本美月の件は詳しくないので、役に立つかどうかも分かりません。早瀬弁護士の判断にお任せします」
「ありがとうございます」早瀬は頷いた。「委任契約は、こちらの秘書から改めて連絡します」
「はい」
葵が出ていく。早瀬は立ち上がって見送らず、「お気をつけて」とだけ言った。
彼女が横を通り過ぎた瞬間、ふわりと梨花の香りが鼻先に絡む。
清く、淡い。
濃いめの顔立ちと、あの決断の早さとは、どこかちぐはぐだ。
そう思った途端、早瀬信祐は眉をひそめ、目の色をわずかに深くした。
数秒の間を置き、彼は万年筆を手に立ち上がる。デスクのパソコンでStarrismのサイトを検索し、照合する。結果は、葵の言った通りだった。
ほどなくして助手が書類を二部抱えて入ってくる。早瀬は顔を上げて言った。
「竹内葵の身元を調べて」
事務所を出ると、夕焼けが空の半分を染め、暮色がゆっくりと降りてきていた。
晩秋の冷たい風がコートの隙間から染み込み、葵は小さく身震いする。
時刻を見る。もうすぐ六時。
そのタイミングで、メッセージが届いた。
「庄司優斗名義の流動資金は計4億2000万。5つの銀行に分散。株・投信3900万。庄司グループ傘下5社の株式38%保有。不動産13件。大型商業施設3件。高級車9台。限度額100万超のクレカ6枚。夫婦共有財産に該当する流動資金は1億2900万+一部の株・投信。不動産5件。車4台。先月、新井新菜の誕生日に120万のBMWを贈っている」
葵は足を止め、目を見開いた。
資産をどうやって洗い出すか、まさに考えていたところだった。手間が省けたのは助かる。あとは急いで銀行を回り、記録を揃えるだけ。
新井新菜に百万超の車――先に二千万円超の家を見せつけられているせいか、驚きは薄い。だが心が波立たないわけがない。
スマホを握る指に、力が入る。
必要なのは、彼が新井新菜に買い与えた品の支払い記録――それだけだ。
家に戻る頃には、すっかり暗くなっていた。ガレージに黒いカイエンはない。
庄司優斗はまだ帰っていない。
玄関を入ると、家政婦が彼女に気づき、笑顔で声をかけた。
「奥様、お帰りなさいませ」
葵も笑って頷く。
「夕飯、お願い」
家政婦が尋ねる。
「旦那様の分も、いつも通りご用意しますか?」
葵は唇を結ぶ。庄司優斗に電話もLINEもしたくなかった。
「いつも通りで大丈夫です」
そう言って二階へ上がり、メイクを落としてシャワーを浴び、楽な部屋着に着替えた。
再び降りると、四品と汁物が並んでいる。椅子を引いて座り、数口食べたところで、外から車のエンジン音がした。
ほどなくして庄司優斗が入ってくる。片手に白い紙袋、もう片方の腕には青いコート。
葵は一瞬、意識が遠のいた。
鳳の目に映るのは、春風みたいに穏やかな顔。だがその顔は、今朝、新井新菜と熱く口づけを交わしていた顔と、すぐに重なってしまう。
あの衝撃的な光景は、悪夢みたいに何度も蘇るのだろう。いちばん近しい二人に裏切られた痛みを、何度でも思い出させるために。
庄司優斗は葵を見るなり、柔らかな笑みを浮かべ、足取りまで軽くなる。紙袋をテーブルに置いた。
「葵、帰ってたんだ。今日は早いね。残業じゃなかった?」
葵は目の奥の複雑さを上手く隠し、穏やかな笑顔を作る。
「ちょっと疲れちゃって。早めに帰ったの」
白い袋のロゴに目が留まり、思わず聞いた。
「城北に行ったの?」
庄司優斗は彼女の疲れを見て取ったのだろう。眉目に心配が滲み、手を伸ばして頬に触れる。声がやけに優しい。
「最近、痩せたよ。顔色も良くないし、食べる量も減ってる」
そう言いながら袋から中身を取り出す。
「食欲出るかなと思ってさ。白雪大福と、キャラメルミルクプリン、それにスペアリブと餅の甘辛炒め」
葵は、並べられたそれらを呆然と見つめた。
どれも大学の頃から好きで、庄司優斗が買ってきたことは一度や二度じゃない。
城南にも店はある。けれど葵は懐古趣味で、城北の大学近くのあの店の味にこだわる。
城南から城北までは車で一時間半。往復で三時間。
――いつも、そうだった。
大学の頃も、卒業してからも。彼女が「食べたい」と言えば、深夜だろうが遠かろうが、手に入りにくかろうが、彼は車を出した。
何気なく「急に食べたくなった」と口にしただけでも、その品は数十分後、数時間後、あるいは翌日、目の前に現れた。
今日みたいに、ふいに驚かせることもある。食べ物だったり、花だったり、ブレスレットやネックレス、ピアス、ヘアゴムみたいな小さなものだったり。
彼はいつだって、彼女のために手間を惜しまなかった。
葵には分からない。
彼の愛は本物だったのか。それとも、作り物だったのか。
本物なら、なぜ不倫する。
作り物なら、どうして六年も続けられる。
胸の奥から苦味が滲み出し、全身の細胞を侵していく。
葵は必死に押し込め、泣き声が混じらないようにした。
「わざわざ……そんな遠くまで? 私、もともと食が細いし、最近は疲れてるだけ。休めば大丈夫だよ」
異変を悟られたくなくて、蓋を開けて中身を見た。なのに――急に、好きだったはずの味が遠く感じる。
食べたいという気持ちが、どこにもない。
「道が混んでてさ。冷めちゃったな」庄司優斗は袋を手に取る。「温めてくる」
葵は言った。
「田中さんにお願いすればいいよ。長く運転してきたんでしょ。少し休んで、先にご飯食べよう」
庄司優斗は彼女を見て、ふっと笑う。
「うん。じゃあ手を洗ってくる」
彼が離れた直後、テーブルに伏せていたスマホが短く鳴った。
「帰宅前、ル・ラント邸宅街に寄っている。城北に行ったのは新井新菜が、あそこの浮島と、梨の甘露煮が食べたいと騒いだから」
葵は、息を呑んだ。
心の傷口がまた裂け、凍てつく風が容赦なく吹き込んでくる。
――そうか。
私のためじゃない。
ついで、だったんだ。
ただの、ついで!
葵はふっと笑ってしまった。口元は嘲るように歪むのに、目の奥が熱くなる。
鼻を軽く吸う。涙が落ちそうで、慌てて立ち上がり、二階へ逃げようとする。
一段目の階段に足をかけた、その時。
右手から、ひそひそと小さな話し声が聞こえた。
階段の右の角には一階のトイレがある。
その声は――庄司優斗。
内容ははっきりしない。それでも、『新菜』という呼びかけだけは耳に刺さった。
葵の瞳孔が、止まる。
上げかけた足をそっと戻し、角へ二歩寄る。迷って、それでもスマホの録音を起動した。
庄司優斗は電話の向こうを、甘い声で宥めている。
「うんうん、分かった。とりあえず誰かに代役を頼んで。彼女は疑わないから。明後日、俺が行く。いい?」
低い声なのに、優しさと甘やかしが滲み出ていた。
本来なら――そんな言い方も、そんな声も。
彼女だけのものだったはずなのに。
別の女をあやす声を聞いた瞬間、葵の胸は膨れ上がって張り裂けそうになる。視界に薄い霧がかかり、きらりとした雫が、頬を伝って落ちた。
