第7章 彼らが一緒にいる証し
竹内葵は壁際でスマホを握りしめたまま、庄司優斗が電話口の新井新菜に甘い言葉を囁き尽くすのを聞いていた。彼女にとって、その一分一秒が拷問だった。
――もう、聞き続ける勇気がない。
そう気づいた瞬間、情けないほどあっさりと録音を切り、踵を返してその場を離れた。
庄司優斗はさほど時間をかけずにレストランへ戻ってきた。竹内葵が俯いて目元を拭っているのを見るなり、慌てて駆け寄る。
「どうした?」
「さっき、油が目に跳ねちゃって……開けられないの」
庄司優斗は眉を寄せ、彼女の隣の椅子を引いて腰を下ろすと、焦ったように顎先をそっと押さえた。乱暴に擦ろうとする手を掴み、制する。
「見る。揉むな!」
目を閉じていても、腫れ具合は一目でわかるほどだった。
「バカか。目、傷つけたらどうするんだよ」
叱る声に、痛いほどの心配が混じる。指の腹が彼女の頬の涙をやさしく拭い取った。
「ほら、洗おう」
竹内葵は唇をわずかに動かしたが、声にならない。
目は閉じたまま。それでも、彼の表情が見えないはずなのに、胸の奥に届いてくる。いまこの人は本気で心配している――その確かな温度だけが。
数歩も行かないうちに、ふっと身体が宙に浮いた。
庄司優斗が彼女を抱き上げ、トイレへ運ぶ。温水で濡らしたタオルを当て、目元をそっと拭う。ひと撫でごとに慎重で、まるで稀少な宝物に触れるみたいに。
彼はいつだって、彼女に対してこうだった。
髪を乾かすのも、肩を揉むのも、手を洗うのも、足を洗うのも。メイクを落とすのも、逆にメイクをするのも。できないことなら、彼女のために覚えようとする。そんな人だった。
――なのに。
さっきまで別の女を甘やかしていた口で、どうして次の瞬間には、こんなにも真剣に私を気遣えるの?
庄司優斗が彼女の眉に触れた。
「開けられそう?」
竹内葵は睫毛を震わせ、ゆっくりと目を開く。視界の先、深い瞳と真正面からぶつかった。
「少しはマシ?」
「……うん」
庄司優斗は困ったように息を吐き、低い声で言い聞かせる。
「腫れてる。あとで田中さんにゆで卵作ってもらって、転がして冷やそう。次から気をつけろよ」
竹内葵は彼を見つめた。嘘の気配が、どこにも見つからない。
ぼそりと返事をして、手を引かれるままレストランへ戻る。田中さんは、彼が持ち帰ったものをすでに温め直していた。
この三つの軽食は、恋人だった頃から結婚してからも、ずっと二人の時間に寄り添ってきた。
あの頃は証人だったものが、いまは――自分が笑いものだという証拠に変わってしまった。
竹内葵は大福に箸を入れ、ひと口分をつまみ取る。……甘さが、前ほど感じられない。
「この店、オーナー変わった?」
「変わってないよ。いつもの人だ。美味しくない?」
「甘くない」
「俺も食べる」
庄司優斗が器を引き寄せ、自分も同じように箸を伸ばしてひと口。
「甘いけどな」
変わったのは甘味じゃない。味わう側の自分だ。
込み上げる酸っぱさを喉の奥で押さえ込み、キャラメルミルクプリンをひと口。
「これは変わってない」
「時間経って温め直したから、食感が落ちたのかもな」
庄司優斗は口元に笑みを残す。
「次はB市で食べよう。ちょうど月末にK大学で創立記念行事があるんだ。今日の午後、学長の秘書が招待状を持ってきた」
「……創立記念?」
庄司優斗は魚を一切れ取り、丁寧に骨を外してから彼女の椀に置いた。
「そう。去年、庄司グループとして実習棟を一棟寄付しただろ。八月に完成したから、今年の創立記念行事で著名な卒業生として戻ってほしいって」
著名な卒業生。
確かに、二人は当時かなり目立っていた。
美術学科の一番の美人と、金融学科の学園のイケメン。出会いだって、庄司優斗が手間をかけて仕組んだものだった。追いかけ方も派手で、堂々としていて、眩しいほどだった。
あの頃の庄司優斗は、意気揚々として、太陽みたいに明るかった。
バスケをするだけで人だかりができ、校内には片想いも両想いも、彼に向けた視線が溢れていた。
それがいまは、ビジネスの場で磨かれた分だけ、寡黙で穏やかになった。少年の影は、長い年月の中で薄れていく。
竹内葵は視線を引き戻し、胸に差す冷えを隠すように、椀の魚を見下ろした。肯定も否定もせずに言う。
「美術館、忙しいし……時間が取れるかまだわからない」
「いいよ、急がなくて。そっちの予定が決まったら、俺が返事する」
「……うん」
食後、田中さんがゆで卵を二つ持ってきた。庄司優斗が受け取り、彼女の手を引いてソファへ座らせる。
「目、閉じて」
「自分で――」
「いいから」
竹内葵は指先をきゅっと縮め、目を閉じた。
卵は熱くない。転がす手つきも、驚くほどやさしい。
十分ほどそうしているうちに、卵は冷え、赤みも少し引いた気がした。
「明日の朝も、田中さんに二つ作ってもらって転がそう」
「……うん」
小さく返事をして、竹内葵は二階の寝室へ上がった。庄司優斗が手を離す。
「先にシャワー浴びてくる。眠いなら先に寝てて。待たなくていい」
「うん」
彼がクローゼットで寝間着を取り、そのまま浴室へ向かうのを見送った、そのとき。
ぼんやりした頭に、スマホの通知音が鋭く刺さった。
――また、この番号。
「庄司優斗のスマホには新井新菜の番号は登録されてない。別の番号でLINEのサブ垢を作ってる。表示名は『君』。中身は新井新菜だけ。新井新菜のLINEとカップルアイコン。新井新菜のinsを見て。名前はEcho」
胸が、ぎゅっと掴まれた。
竹内葵はLINEを開き、新井新菜とのトークを探す。
表示名は「君に会う」。
――カップル名、だ。
アイコンは海面の夕焼けを描いた油絵。新井新菜が描いたものらしく、ぱっと見ではカップルアイコンだとわかりにくい。
以前、庄司優斗はスマホを二台持ちなのかもしれない、と考えたことがある。
彼の今のスマホは、彼女が見ようと思えばいつでも手に取れた。中には彼が普段使わない、彼女がよく使うアプリまでいくつも入っている。
画面ロックの暗証番号は結婚記念日。顔認証にも彼女の顔が登録されていた。
竹内葵は自嘲気味に唇を引いた。
二台じゃない。二つのLINE――そういうことか。
次にinsを開き、メッセージにあったIDを検索する。LINEと同じアイコン。タップすると投稿は全部で26件。
更新頻度は高くない。半月空くこともあれば、ひと月、ふた月空くこともある。
最新の投稿はカルティエのブレスレット。
文面はこうだ。最高の贈り物は、何かのモノじゃない。予想外の温もりと、突然のサプライズ。
投稿日は、数日前。竹内葵と庄司優斗の結婚三周年記念日と同じ日だった。
頭の中が「ぶん」と鳴って、一瞬止まる。息が詰まった。
あの日、彼が彼女に贈った貝殻のネックレスもカルティエだった。
気づけば爪が掌に食い込み、胸の奥に血の穴が二つ、深く穿たれたみたいに痛む。掌の痛みなど、比べものにならない。
さらに下へスクロールすると、白いBMWにもたれかかった写真。まだナンバーも付いていない。
先月の投稿だ。
メッセージにあった「先月、庄司優斗が新井新菜にBMWを贈った」という話――たぶん、これだ。
新井新菜はピンクのシャネルのセットアップ。手にはGUCCIの白いハンドバッグ。清楚で整った顔に、幸せそうな笑みが咲いている。
添えられた文字は、たった一言。
旦那にもらった。
――私の知らないところで、もう「旦那」「嫁」なの?
じゃあ、私は。正妻の私は、いったい何なんだ。笑い話の脇役みたいじゃないか。
他にも、ブランドバッグや西洋料理の写真が並ぶ。どの投稿にも「旦那」「嫁」みたいな甘ったるい言葉が散りばめられていた。
一番最初の投稿は、男と指を絡めた写真。男の指は長く、骨ばっている。手首にはオーデマ・ピゲの黒いダイヤの腕時計。
その時計のバックルには刻印があった。
TA。
竹内葵の名前のイニシャルだ。
その時計は、去年S国で二周年の結婚記念日に買ったものだった。彼女のレディースのほうには、庄司優斗のイニシャルが刻まれている。
その後にはツーショットが二枚。距離はやけに近い。一枚は庄司優斗が腰を抱き寄せ、もう一枚は新井新菜が顎先にキスをしている。
文面はこうだ。
付き合った初日。ずっとずっと一緒にいようね。
庄司優斗の正面が写っているのは、この投稿だけ。次は、三か月後の投稿。落ち着いた大きな窓の前で電話をする、彼の後ろ姿。
文面は、彼の背中、見れば見るほどかっこいい。
竹内葵は一つも見落とさなかった。
もっと目を背けたくなるものを、すでに見てきたはずなのに。胸の穴は広がるばかりで、流れ出る血は、とうに温度を失っていく。
――去年の六月から、始まっていた。
いまに至るまで、もう一年以上。
あのメッセージがなければ、彼女はこれからもずっと騙され続けたのだ。何も知らないまま、二人に弄ばれ、くるくると回され続けていたのだ。
