第1章 退職を余儀なくされた後に家を追い出される
茜音視点
段ボール箱を抱えてデザイン部長室を出た瞬間、廊下にいた社員たちの視線がいっせいに私へ集まった。ひそひそとした気配が、背中にまとわりつく。
ちょうどそのとき、エレベーターの扉が開く。
養父の志水正国、養母の志水真琴、そして――二人の実の娘、志水寧々が降りてきた。
「茜音」
志水正国は足を止め、私の腕の中の段ボールに目を落とす。
「引き継ぎは終わったのか?」
私は静かな目で彼を見返し、表情を崩さず口を開いた。
「デザイン部のプロジェクト進捗表はメールで送ってあります。顧客資料も――」
「お姉ちゃん」
志水寧々が柔らかく遮り、私の前へ歩み寄ってくる。親しげな笑みを浮かべながら。
「私、少しずつ慣れていくから安心して。必ず全力でデザイン部長を務めて、お父さんとお母さんの信頼に応えるね」
彼女を見た。
今日はシャネルのセットアップ。手入れの行き届いた長い髪。見た目だけは完全に「できる女」。
――けれど、誰が想像しただろう。ひと月前に志水家へ戻ってきた時は、CADすらろくに扱えない素人だったくせに。今は私の席を奪い、部長をやれると平然と言う。厚顔にも程がある。
「そうよ。寧々は賢いもの。何でも覚えるのが早いの」
志水真琴がすぐに続き、志水寧々の手の甲を軽く叩く。その目は慈愛で満ちているのに、私へ向けた途端、露骨な嫌悪に変わった。
「それに比べて茜音、あんたは」
嘲るような声音。
「実の父親は身体に障害があるんですって? 母親は無職。兄が三人もいて誰一人結婚もできず、弟は先天性心疾患……病院への借金も相当とか」
「お母さん! もう言わないで!」
志水寧々が胸を痛めた顔で止める。
そして私へ向き直り、同情をたっぷり含ませた目で言った。
「お姉ちゃん、お父さんとお母さんと話したの。会社の規定だと退職は当月分のお給料までだけど……私たち、三か月分多めに渡したい」
一拍置いて、まるで私のためだけに考え抜いたような顔。
「私たちの気持ちと、それから健司さんとの婚約の補償も兼ねて。お姉ちゃん、家の事情が大変だし、お金が必要でしょ?」
わざと神崎健司の名を出した。
神崎家と志水家は商業上の縁組の関係で、もともと今年、私と神崎健司が結婚する予定だった。だが志水寧々が戻ってきた瞬間、婚約は当然のように彼女へ移った。
先週、私たちのはずだった結婚式の招待状が、社内中に配られたばかりだ。
志水寧々の言葉が落ちると、周囲の社員たちがささやき始める。
「志水部長の実家って、そんなに大変だったの?」
「これからの生活、相当きつそうだよな……」
「俺なら志水社長に頼み込むけど。まだ志水家に置いてもらえるかもしれないし」
「寧々さん、ほんと優しい。きっと許してくれるよ」
私は聞こえないふりをした。顔の冷たさだけが濃くなる。
「結構です。契約どおり清算してください。私の分は一円たりとも欠けないように。私のものじゃない分は、一円たりとも多く受け取りません」
志水真琴が鼻で笑った。
「今さら高潔ぶるの? この二十年、志水家の金で食って、志水家の金で着てきたくせに。『もらっちゃいけないものは要りません』なんて、よく言うわ」
「志水夫人」
私は視線を上げ、嘲りを含ませる。
「この数年、私が志水グループにもたらした利益は、私にかけた費用をとっくに上回っています。財務に計算させましょうか、この帳尻」
志水正国の顔色が沈み、声を荒げた。
「茜音! お前、母さんにどういう口の利き方をしてる!」
志水寧々が慌てて間に入る。
「お父さん、お母さん、お姉ちゃんを責めないで。きっと気持ちの整理がつかないだけなの」
そう言いながら、鞄から包装の綺麗な箱を取り出した。
「お姉ちゃん、これ、送別のプレゼント。高いものじゃないけど、私の気持ちだから」
その手が私の段ボールへ伸びる。避けようと身を引いたが、間に合わない。
ガタン。
箱が床に落ち、書類が何枚も滑り出して、磨かれた大理石に散った。
「これ……次のシーズンの目玉商品の設計図だ!」
誰かが息を呑む。
「志水グループの核心機密だぞ。今年の売上を左右する……」
廊下が一瞬で死んだ。
志水真琴が真っ先に我に返り、顔面を青くして叫ぶ。
「志水茜音! 会社の設計図を盗んだの!?」
「盗む必要がどこにあるの、そんな紙切れ」
私は冷たく笑う。
これらは全部、私が一本一本線を引いたものだ。私は幼い頃から一度見たものを忘れない。頭の中の像のほうが、こんな数枚よりはるかに鮮明だ。
「じゃあ、どうしてあんたの荷物に入ってるのよ!」
志水真琴の声が甲高くなる。
「現物が出てるのに、まだ言い逃れする気!? 競合に売って金にするつもりだったんでしょ!」
「志水茜音、見損なったわ! 志水家が育ててやったのに、恩知らず!」
志水寧々も口を押さえ、目を赤くして言う。
「お姉ちゃん……お金が必要なら言ってくれればよかったのに。どうしてこんなことを。これはお父さんと社員たちの、血と汗の結晶でしょう?」
さらに志水正国へ向き直り、涙声で。
「お父さん、お姉ちゃんを責めないで……きっと追い詰められて、魔が差しただけ。お願い、警察は呼ばないで……」
「寧々、あんたは優しすぎる!」
志水真琴が歯ぎしりしながら私を睨む。
「やったことには責任を取らせるべきよ!」
部署の責任者らしき男まで声を上げた。
「志水社長、これはさすがに……! 寧々さんはあなた方のことばかり考えてるのに、どうしてそんなことができるんです!」
「そうだよ、最低だな」
「普段は清廉ぶってたくせに、会社の機密を盗むなんて!」
非難の波が押し寄せる。
それでも私は一言も返さず、ただ黙って腰を落とし、設計図を一枚ずつ拾い上げた。
ビリッ。
静まり返った廊下に、紙の裂ける音がやけに大きく響いた。
粉々になった図面が、雪のように私の指の隙間から舞い落ちる。
「志水茜音、あんた正気!?」
志水真琴が悲鳴を上げる。
「次のメインデザインなのよ!」
「ゴミみたいなデザイン」
私は嘲るように吐き捨てた。
「こんな出来のもの、タダでも邪魔」
志水正国が怒りを押し殺し、顔を歪める。
「それがどれだけの金になると思ってる!」
私は薄くまぶたを上げる。
「あなたたちにとっては高い。私にとっては無価値」
それから志水寧々を見る。
「ついでに言っておく。志水グループが過去五年で受賞したデザイン、特許の所有者欄は全部、私の名前。契約上、退職後は使用権を取り下げる権利が私にある」
志水寧々の顔色がさっと白くなった。
私は三人の表情がさらに悪くなるのを眺めながら、はっきりと言い切る。
「明日から、志水グループがその特許を使い続けるなら、弁護士から内容証明を送る」
「この……恩知らずめ!」
志水真琴が震えながら叫ぶ。
「どうしてそんなことができるの! 志水家があんたを育てたんでしょ! あんたのものは全部、志水家が与えたのよ!」
そう言いながら、手を高く振り上げ、私の頬へ振り下ろそうとする。
――冷たい光が私の瞳に宿った。避けようとした、その瞬間。
骨張った大きな手が、志水真琴の手首をがっちり掴み止めた。
水の底みたいに冷えた男の声が、背後からゆっくり落ちてくる。
「その子、本当にお前の娘か? 恩知らずだの何だの……自分が言える立場か、鏡でも見てから言え」
