第2章 油絵も修復できる?
茜音視点
一同が愕然として声のほうを振り向く。そこには背の高い男が、私の前に立ちはだかるようにして守っていた。
私も息を呑む。年は二十五、六だろう。身長は一八五を優に超え、濃い色のシャツに同系色のパンツ。襟元のボタンを二つほど無造作に外し、鎖骨がわずかに覗いている。
驚くほど整った顔立ち。深く鋭い目鼻立ち。蒼みがかった瞳には刃のような気配が宿り、口元には不敵な笑み。全身から「俺に喧嘩を売るな」という圧が滲んでいた。
「誰よ、あんた。志水グループで好き勝手して……警備員! 早く呼びなさい! そいつを捕まえて!」
志水真琴がようやく我に返り、顔を真っ赤にして喚き散らす。
男は手を離すと、彼女など眼中にないまま、私へ向き直った。
「志水茜音?」
眉を上げて問う声が、少しだけ柔らかくなる。
私は頷く。胸の奥に、疑問が渦を巻いた。
この男の服は一見シンプルだが、Y国の最高級オーダーだと分かる。シャツ一枚でも六桁はくだらない。さらに、腕を上げた瞬間に袖口にちらりと見えた控えめな織り柄――S国の、限られた顧客しか受けない時計工房の意匠だ。
――実の父は障害があって、母は無職。家は食べるものにも困るほど貧しい。
そう聞かされてきたのに、どう見ても辻褄が合わない。
戸惑う私をよそに、男はさらりと言った。
「俺は菅田悠一。お前の悠一兄さんだ。母さんが迎えに行けってさ。帰るぞ」
私が言葉を探すより早く、志水寧々の目がきらりと揺れ、菅田悠一を素早く値踏みする。
「お姉ちゃん、そっちのお兄さん?」
気遣うふりをした声。けれど、薄い嘲りが隠しきれていない。
菅田悠一は聞き取ったらしく、彼女に視線すらくれない。私の手を掴み、そのまま歩き出した。
「行くぞ。こんな場所、臭すぎる。あと一秒でもいると吐き気がする」
その瞬間、階段室から四、五人の警備員が駆け込んできた。手にはゴム警棒。
志水真琴が勢いづき、指さして叫ぶ。
「そいつよ! 不法侵入に暴行! 捕まえなさい!」
警備員が一気に囲む。
菅田悠一は振り向きもしない。手首を取って――捻る。
最初の一人が、まるで投げ捨てられた荷物みたいに二メートル先へ転がった。
残りが同時に飛びかかる。
菅田悠一は一人の膝の外側へ蹴りを叩き込み、別の一人の腕を逆手にひねる。骨が悲鳴を上げるように、手首が不自然な角度に曲がった。
十秒も経たないうちに、五人全員が床でうめいていた。
廊下が、墓場みたいに静かになる。
菅田悠一が私の隣へ戻り、眉をひょいと上げた。
「どうだ、兄さん、カッコよかっただろ? ヒーローっぽくね?」
そう言って志水真琴に目を向けると、視線だけが一気に冷えた。口元には薄い笑みが残ったまま。
「志水夫人。俺、女は殴らない主義なんだ。じゃなきゃ今ごろ、お前もあいつらと一緒に床だ」
志水真琴は真っ青になり、唇を震わせるだけで声が出ない。
志水寧々が泣きながら志水真琴にすがりつき、私へ向けて非難する。
「茜音! どうしてそんなふうに、お兄さんに人を傷つけさせるの! お母さんだってこんなに怯えてる!」
「許さん……警察だ! 警察を呼ぶ!」
志水正国が怒りで顔を歪め、スマホを取り出した。
私は新しくできた兄を見て、少しだけ呆れたように息をつく。
それから彼の手を引いた。
「行こう。無関係な人間のために時間を使う必要はない」
思いのほか強く握っていた。
菅田悠一は逆らわず、私に引かれるまま無音の廊下を抜け、エレベーターへ入る。
扉が閉まる直前、志水正国がようやく叫んだ。
「志水茜音! 今日この扉を出たら、二度と戻ってくるな! 志水家はもうお前を認めない!」
私は閉ボタンを押す。
「安心して」
声ははっきり届く。骨の髄まで冷えた温度で。
「捨てるのは私。志水家みたいなゴミ、要らない」
一階ホールへ出ると、入口に黒いバイクが停まっていた。
無駄な装飾のない、研ぎ澄まされたライン。タイヤには泥はね。
分からない人には普通のバイクに見えるかもしれない。
だが私は一目で気づいた。世界で二十台限定。どれも一点物の芸術品。値段は、都心部の家一軒に匹敵する。
「それ……あなたの?」
私は菅田悠一を見る。
菅田家は田舎町の貧しい家じゃなかったのか。高級服を着て、こんなものに乗る?
菅田悠一はヘルメットを差し出し、それが答えだと言わんばかりに言った。
「乗れ。帰るぞ」
ヘルメットを被り、後部座席へ跨る。声は硬いまま、けれど揺るがない。
「その前に、寄るところがある」
「どこだ?」
「着いたら分かる」
言いたくなさそうなのが伝わったのだろう。菅田悠一もそれ以上は聞かず、跨ってエンジンをかけた。
轟音。
バイクは志水ビルを離れ、風を切って走る。二十分後、国立美術館の脇の入口で停まった。
菅田悠一がヘルメットを外し、荘厳な建物を見上げて怪訝そうに眉を寄せる。
「ここに何の用だ?」
「昔の知り合いに挨拶」
私は降りてヘルメットを返す。
「もう、来られないかもしれないから」
私は慣れた足取りで側門から入り、職員用の通路を抜ける。
菅田悠一が後ろをついてきて、壁に並ぶ高価な複製画に目を留め、それから私の背中を見て、ますます興味を深めているのが分かった。
館長室の前で、私はノックをする。
「どうぞ」
扉を開けると、白髪に金縁眼鏡の老人が書類を読んでいた。
顔を上げた瞬間、目がぱっと輝き、勢いよく立ち上がる。
「A. KANE先生!? どうしてこちらへ」
「千野館長」
私は礼儀正しく一礼する。
「ご連絡に来ました。今後の古い油絵の修復ですが、私、継続して関わるのが難しくなります」
千野館長の笑みが固まり、眉が寄る。
「なぜです? 報酬の件なら、相談できます」
机を回り込み、焦るように言葉を重ねた。
「A. KANE先生、ご存じでしょう。国内で十七世紀の油絵を扱える人間なんて、片手で数えられるほど。その中でもあなたが一番だ。条件は、あなたが望むだけ出します」
入口にいた菅田悠一の眉が、わずかに動いた。
古い油絵の修復? 十七世紀の? 俺の妹、デザイン部長じゃなかったのか……
私はその疑問には答えず、館長へ続ける。
「報酬の問題ではありません」
首を振り、淡々と言う。
「近いうちにこの街を離れることになりそうで、定期的に来るのが難しいんです」
菅田家はこの街から数百キロ離れた町だ。通うのは現実的ではない。
千野館長は残念そうな顔になり、まだ何か言いかけた――そのとき。
コンコンコン、と急なノックが響いた。
若い職員が息を切らして飛び込んでくる。
「館長! 藤堂さんがいらっしゃいました! 国宝級の絵をお持ちで、A. KANE先生に名指しで修復を依頼したいと……もう修復室にいらっしゃいます!」
