第3章 お前も「師匠」を名乗るのか?

茜音視点

千野館長ははっと息を呑み、困ったように私を見た。瞳の奥には、はっきりとした期待と懇願。

私は数秒だけ黙ってから、ようやく口を開く。

「……先に見てみましょう」

千野館長の顔がぱっと明るくなる。

「はい、はい! では、すぐに!」

一行は廊下を抜け、突き当たりの専門修復室へ向かった。

扉は開いていて、中にはすでに二人が立っていた。

ひとりは鉄灰色のスーツに身を包んだ老人。痩せていながら背筋はまっすぐで、白髪は一糸乱れず撫でつけられている。灼けるような目で目の前の絵に見入り、その佇まいからは、芸術品への執着と慈しみが滲んでいた。

藤堂博文。国内の収蔵界で「藤堂大旦那」と呼ばれる泰斗。目利きの苛烈さと、収蔵品の格で知られる男だ。

その藤堂の隣に、四十がらみの男がいる。整髪料で光る髪。油絵を指し示しながら、自信満々に語っていた。

「藤堂様。この程度の顔料層の剥離でしたら、まず微真空吸着で固定し、次に特製ジェルで層別に補強する必要があります。難易度は非常に高い。成功率は、せいぜい三割でしょう」

藤堂の眉間に皺が刻まれる。どうやら、その見立てに納得していない。

足音に気づいた藤堂が振り向き、千野館長たちを見るなり目を輝かせた。

「千野館長! A・KANE先生は来られるのか?」

話を遮られた男が、横目で私を値踏みする。

千野館長が口を開くより早く、私は彼の脇をすり抜けて作業台の前に立った。絵を一目見る。

「直せます」

「直せる? ガキのくせに大口叩くな!」

男――村上剛志が怒鳴り声を上げる。

「これがレンブラントの真作だって分かってるのか!」

藤堂も眉をひそめた。

「嬢ちゃん、油絵に興味があるのは結構だが、大人しく先生の仕事を見学していなさい」

千野館長が咳払いを一つ。

「ええと……実は、この方がA・KANE先生です」

藤堂の目が大きく見開かれ、私を凝視する。

「A・KANE先生は神出鬼没で、業界でも滅多に会えん。まさか、こんな若い……」

「ふざけるな。頼むから、そんな大嘘やめてくれ」

村上剛志が鼻で笑う。

「A・KANE先生はこの三年で国宝級を何十枚も救ってるんだぞ。そんな神業が、ちっこいお嬢ちゃんにできるかよ」

「へえ」

私は眉を上げる。

「そこまで尊敬してるなら、私がこれを直したら――私がA・KANEだって証明になります?」

「お前がA・KANE先生なら、その場で土下座してやる!」

「待ってます」

私の顔を見て、村上剛志の焦りが滲んだ。

「……待て。マジで触る気か!? 壊したら、タダじゃ済まないぞ!」

「ふっ」

ドア枠にもたれていた菅田悠一が、小さく笑った。

だらりと入ってきて、両手をポケットに突っ込む。気だるげで、なのに妙に目立つ。

「たかが絵一枚だろ」

私の隣に立ち、肩を軽く叩く。

そして村上剛志を冷たく見下ろした。

「安心して直せ。壊れても兄さんが全部持つ。いくらでも払える」

村上剛志は言葉に詰まり、顔を赤くする。

「お、お前ら……正気じゃねえ!」

その間に、私はもう動いていた。

手袋をはめ、器具棚から道具を取り出す。指先に迷いはない。

村上剛志が顔色を変えて怒鳴る。

「やめろ! 何する気だ!」

止めに来ようとした彼の前へ、菅田悠一が半歩ずれて立ちはだかった。

「急ぐなよ」

眉を上げ、身長と圧で黙らせる。

「土下座するって言ったよな。今から目を見開かせてやる」

「狂ってる……!」

村上剛志は震えながら藤堂へ叫ぶ。

「藤堂大旦那様! 止めてください! 国宝なんですよ!」

藤堂も慌てて動きかけた――だが、私の手元を見た瞬間、足が止まった。

真空のプローブは角度も圧も狂わず、まるで精密機械の制御。

私の視線は一点に沈み、世界が傷ついた絵だけに収束していく。

村上剛志の表情が、怒りから驚愕へ変わり、やがて信じられないという顔になる。

「……この手つき。最高精密レベル……」

呟きが漏れる。

「あり得ねえ、まだ何歳だよ……」

藤堂の目はさらに見開かれた。数歩詰め、作業台の縁ぎりぎりまで身を寄せる。

「層別補強のタイミングが……完璧だ……」

思わず漏れた低い賛嘆。

「温度制御も……寸分の狂いがない……」

村上剛志の瞳孔がきゅっと縮む。

「まさか……本当に……」

千野館長が、微笑んで頷いた。

村上剛志の声がかすれる。

「で、でも……A・KANE先生って、もっと……」

「年寄りだと思ったか?」

千野館長が代わりに言い、誇らしげに私を見る。

「初めて会った時、私も驚きました。でも認めざるを得ない。天才はいる。A・KANE先生は若いが、七、八十の修復師より遥かに上です」

藤堂もゆっくり頷き、眼差しの色が変わっていく。敬意へ。

私は第一段階の要所を終え、背筋を伸ばして手袋を外した。

呆然としている村上剛志を、静かに見やる。

「それで」

声は冷えたまま、嘲りを含む。

「今、どうやって土下座します?」

村上剛志の顔が一気に赤黒くなる。首を強張らせ、必死に言い返した。

「調子乗んな! 初期固定が終わっただけだろ!」

唾を飛ばす勢い。

「修復は工程が山ほどある。後の洗浄、補彩ができるか分かんねえじゃん! 今のは……たまたまだ!」

「たまたま?」

私は眉を上げ、作業台の前を空ける。

そして手を差し出した。

「そう思うなら、あなたがやればいい。『たまたまじゃない修復』ってやつを」

村上剛志は言葉を失い、唇を震わせた。だが人目のなかで、みじめな自尊心のために前へ出るしかない。

彼は細いクリーニングペンを掴む。緊張のせいか、手が抑えられずに震えていた。

その震えはわずか――しかしミリ単位の精度が要る古画修復では、致命傷だ。

私は腕を組み、冷たい目で見下ろす。

「道具すらまともに持てないで修復師?」

吐き捨てるように言う。

「修復界って、そこまで腐ったの。誰も彼もが『師匠』を名乗れるワケ」

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