第4章 実の両親はいったいどれほど金持ちなんだ!
茜音視点
村上剛志は、私の言葉を受けた瞬間に顔色を変えた。青ざめた頬。額には青筋が浮き、わずかに引きつった口元が怒りを抑えきれていない。――あの薄っぺらい理性が、炎に飲み込まれていくのが見て取れた。
「今日こそ見せてやる……本物の『師匠』ってやつを!」
咆哮に近い声を吐き捨て、彼は乱暴に身を翻す。作業台の上のクリーニングペンを掴み上げた。先端には、危険な溶剤が一滴――ぬらりと光っている。
私は壁に凭れ、腕を組んだまま見下ろした。
冷めた目で。これは修復じゃない。自滅の見世物だ。
村上剛志の手はキャンバスの上で止まり、必死に「揺れていない」ふりをする。けれど手首は、どうしようもなく震えていた。
ペン先と画面の距離は、ほんの数センチ。落ちそうで落ちない一滴が、まるでダモクレスの剣のようにぶら下がる。
そして――起こるべくして起きた。
一滴。
たった一滴が、するりと滑り落ちる。
絵の人物の頬へ、あまりにも正確に。
ジュ――
小さな音。なのに、静まり返った修復室では爆ぜるように響いた。
溶剤が百年物の油彩に触れた瞬間、顔料が溶け、侵され、変色していく。繊細だった頬に、まだらな黄ばみが傷跡のように広がった。
「ひっ……!」
村上剛志が悲鳴を漏らし、ペンを取り落とす。顔色は鉄青から一気に死灰へ。目は飛び出しそうなほど見開かれ、雷に打たれたみたいに硬直した。
藤堂大旦那様の身体が震えた。ふらつくように作業台へ近づき、震える指で村上剛志を指す。
「お前……何をした……! レンブラントだぞ! レンブラントを……!」
村上剛志は勢いよく振り向き、私を憎々しげに睨みつける。
「こいつだ! こいつが俺を煽ったんだ! 全部こいつの罠だ!」
尾を踏まれた猫みたいな甲高い声。
千野館長の顔が、底まで冷えた。
「村上さん。技術が足りないなら足りないと認めなさい。どうして責任を、こんな若い子に押し付けるんです。修復師としての倫理があるでしょう」
私は壁から身を離し、ゆっくり彼の前に立った。視線を外さず、目の奥を刺す。
「自分の無能を人のせいにするだけ。……臆病者」
背後で、菅田悠一が低く笑った。振り返らなくても分かる。ドア枠にもたれて、面白がって見ている。
「どいて」
私は村上剛志を追い越し、作業台へ戻る。手袋をつけ直し、細いスポイトを手に取った。
工具箱から取り出したのは、特製の中和溶剤。私が自分で調合した、市販品じゃない。
藤堂大旦那様と千野館長が息を止める。
私は溶剤を吸い上げ、わずかに押した。指先は、精密機械みたいにぶれない。
液滴が黄ばんだ損傷部に落ちた瞬間――変化が走る。
侵された顔料が中和され、分解され、黄ばみが薄れ、下の本来の色が戻っていく。三十秒とかからない。致命傷は消えた。
「……なんて……」
藤堂大旦那様が、長く息を吐いた。驚喜と畏敬に濡れた目が、私を映す。
「どうやって……」
答えない。まだ終わりじゃない。
そこから一時間。修復室は、私の呼吸と、道具がキャンバスに触れるかすかな音だけの世界になる。
洗浄、補彩、調色、ニス引き。すべて、ミリ単位で積み上げる。
最後の筆を置いたとき、絵は甦っていた。
藤堂大旦那様が近づき、目を潤ませて声を震わせる。
「……これだ。本来の姿は……。あなたは、師匠の名に恥じない……」
私は手袋を外し、振り向いた。
村上剛志が、そろそろと出口へにじり寄っている。
「待って」
呼び止めると、彼の背中がぴくりと跳ねた。
「さっき、誰かが言いましたよね。私に土下座するって」
村上剛志の顔から血の気が引く。
「そ、それは売り言葉だ! 冗談だろ! やりすぎるな!」
「修復界の『師匠』は、口から出た言葉が冗談で済むんだ」
私は距離を詰める。
余計な言葉は要らない。
膝裏へ――迷いなく足を入れ、軽く蹴った。
「ぐあっ!」
村上剛志の悲鳴。両膝が床に叩きつけられる。
私は後ろ首を押さえ、額が床につくまで伏せさせた。
「暴行だ! 訴えてやる!」
屈辱で尖った声が響く。
「村上剛志」
藤堂大旦那様の声が、氷の刃みたいに落ちた。
「今日という今日、目が覚めた。藤堂家の傘下にある博物館と収蔵品――村上剛志との一切の取引を打ち切る」
屈強な護衛が入ってきて、村上剛志をゴミでも扱うように引きずり出していった。
藤堂大旦那様は私へ向き直る。まっすぐで、誠実な眼差し。
「A. KANE先生。藤堂家の専属首席修復師になっていただけませんか。待遇は、望むだけ用意します」
「申し訳ありません、藤堂大旦那様」
私の声は静かだった。
「近いうちに、ここを離れます」
藤堂大旦那様の目に惜しさがよぎったが、追ってはこなかった。
――
国立美術館を出る頃には、空はすっかり暮れていた。
菅田悠一が愛車のバイクにもたれ、私を見つけるなり歯を見せて笑う。
「俺の妹、マジでカッコよすぎ! 鳥肌立った!」
ヘルメットを差し出し、目を輝かせる。
私は受け取り、横目で睨む。
「……あんまり目立ちたくない。修復師の件も」
「任せろ」
菅田悠一が口元に指を当て、ファスナーを引く真似をした。
「俺の口は金庫より固い」
バイクに跨り、後部座席をぽんと叩く。
「ほら、帰るぞ。父さん母さん、待ちくたびれてる」
――帰る。
その言葉が、胸の奥を小さく跳ねさせた。
私はヘルメットを被り、後ろに乗る。
声に、自分でも気づかないぬくもりが混じった。
「……うん」
エンジンが唸り、バイクは暮色を裂いて走る。
二十分後、辿り着いたのは巨大な屋敷だった。
黒い装飾鉄門がゆっくり開き、白い砂利道の両脇に幾何学的に刈り込まれた庭園。本邸は、古典城みたいな佇まい。
私は言葉を失った。
志水真琴は、私の実家は貧しいと言った。――これが貧困? 門前の金色の噴水だけで、志水家の別荘が一棟建つ。
「どうだ? うち、悪くないだろ」
菅田悠一が得意げに言う。
返事をする前に、薄い色のコートを着た女性が駆け出してきた。
しなやかな体つき。暗がりでも分かる整った顔立ち。
「誰があんな危ないのに乗れって言ったの!」
彼女は菅田悠一を叱り飛ばし、すぐ私の手を掴む。上下を確かめるように見て、怒りが痛々しいほどの心配へ変わる。
「あなたが茜音ね? 私の茜音……見せて……どうしてこんなに痩せて……」
熱い涙が、私の手の甲に落ちた。
見知らぬ温もりに、身体がこわばる。
そこへ中年の男が近づいた。眉目は菅田悠一に少し似ているが、もっと落ち着きがある。
彼は妻を抱き寄せ、優しく言った。
「ほら。子どもが帰ってきたんだ。玄関先で泣くな」
そして私へ。
「茜音。私は父さんだ。おかえり」
肩に手を置こうとして迷い、最後は慎重に――頭頂をそっと撫でた。
リビングは控えめな豪奢で、あちこちに美術品が置かれている。
菅田雪恵が私を座らせ、涙が止まらない。
「全部、私たちが悪いの。こんなに遅くなって……」
菅田直木が電話を取った。
「中村医師。チームごと来てくれ。娘に、最も徹底した検査を」
断ろうとしたが、菅田雪恵が譲らない。
「検査は必要よ……あんな家で、ちゃんと食べさせてもらってたかも分からないじゃない」
――あんな家って。
心の中で突っ込みながら、私は黙っていた。
私の親は、いったいどれだけ金持ちなんだ。
二十分後、二十人規模の医師団が到着し、リビングに精密機器が並ぶ。
菅田夫妻は落ち着かず歩き回り、私が何度も宥めてようやく座った。
「お嬢様は非常に健康です。各数値も良好です」
報告に、二人はようやく息を吐いた。
菅田雪恵がすぐに私を部屋へ案内する。
扉が開いた瞬間、私は貴族の古い私邸に迷い込んだかと思った。 柔らかなアイボリーと繊細なリバーレース、重厚なマホガニーの天蓋付きベッド。壁際の上品なキャビネットには、透き通るような陶肌のアンティーク・ビスクドールが静かに佇んでいる。
「小さい頃のあなたを想像して、用意したの」
菅田雪恵が、気遣いの笑みで言う。
クローゼットへ目をやると、ドレスが一着掛かっていた。
――十三歳の頃、私がデザインしたもの。
「有名なジェニーのデザイナーの服なのよ!」
誇らしげに言われ、私は心の中で叫んだ。
やめて。
それ、私の黒歴史。
誰が自分の黒歴史を目の前にして平然としていられるの。
でも私は微笑んだ。
「ありがとう、お母さん。嬉しい」
「お前ら、俺の妹が今日どんだけヤバかったか知らねえだろ!」
菅田悠一が急に叫ぶ。
「一発であいつを――」
私は素早く彼の尻に蹴りを入れ、目で黙れと合図した。
「何? 誰かがいじめたの?」
菅田直木と菅田雪恵が即座に緊張する。
菅田悠一は後頭部を掻き、空気を読んで口を閉じた。
「古い油絵の修復を勉強してきただけです」
私は説明する。
「今日は依頼があって、少し手を貸しました」
菅田直木の目が赤くなる。
「修復師は楽じゃない……苦労したな」
「技は身を助けます」
私は淡々と言った。
菅田雪恵が突然、私を抱きしめた。泣き声混じりに。
「どうしてそんなことを覚えるの……古い絵の修復なんて、どれだけ神経を使うの。目も手も……どれほど疲れるか……」
彼女は私の手を取る。
指先と虎口にある、道具を握り続けた薄い茧を見つけ、また涙を落とした。
胸の奥が、つんと痛む。
誰かに心の一番柔らかい場所で大事にされるって――こういう感覚なんだ。
