第5章 実はあなたには妹がいる
茜音視点
母は「やっと戻ってきた娘」を抱き締めたまま、胸の内を満たす痛みと誇らしさに浸っていた。けれど――私の身体の温度は確かに柔らかいのに、どこか妙に硬い。そこに、母はすぐ気づいた。
ふっと腕をほどき、私の顔を覗き込む。
私の表情はいつもどおり冷めていて、この手間ひまかけた「姫部屋」に対して口にするのは礼儀正しい感謝だけ。本当の喜びは、どこにも浮かんでいなかった。
母の胸がひゅっと鳴る。
――そうだ。私はもう二十歳だ。人形を欲しがる小さな女の子じゃない。外で流されてきた年月が、私をとっくに大人にしていた。心だって、もう十分に固い。こんな甘ったるい夢みたいな部屋を、好きになれるはずがない。
「……気に入らない?」
母は私の手をぎゅっと握り、声を小さくする。気遣いが、慎重さが、痛いほど伝わってくる。
「大丈夫よ。嫌なら替えましょう。お母さんね、あなたが小さい頃にできなかったこと、全部、埋め合わせしてあげたくて……。ほら、ほかの部屋も見て。お母さんが案内するから」
言うが早いか、母は半ば強引に私を引っ張って、隣の扉を開けた。
次の部屋は、さっきとは真逆のモダンなミニマル。黒と白、グレーの配色に、無駄のない直線。空気まで研ぎ澄まされたような「デザイン」がある。
母はさらに、向かいの部屋も開ける。そこは静かな和の極み――年月を重ねた漆黒の柱や欅の設えに、床の間の淡い一幅の山水画が寄り添っていて、静謐ななかに凛とした雅があった。
「このへんは全部、予備で用意してあるの。どれが好き? それとも、あなたの好みがあるなら明日にでもデザイナー呼んで、全部壊して作り直す。必ず、茜音が一番好きな部屋にするから」
急いている。取り繕うように、必死に「喜ばせよう」としている。
その横で菅田悠一が、楽しそうに肩を揺らしていた。ドア枠にもたれ、私に向かって眉を上下させると、口だけを動かす。
『ほら。うちの母さん、めちゃくちゃ緊張してんだぞ』
その熱が、肌にまとわりつくみたいに包んでくる。慣れなくて少し居心地が悪いのに、不思議と嫌ではなかった。
私は何部屋か目でなぞり、最後に、廊下の突き当たりの扉で視線を止めた。
大きな掃き出し窓が一面にあり、夕陽の余韻が惜しみなく差し込んでいる。室内の輪郭を、金色の縁取りでそっとなぞるように。
「……あの部屋、私が使ってもいい?」
小さく尋ねると、母は反射みたいに笑った。
「もちろん!」
母はすぐ私を連れて扉を押し開ける。
そこはサンルームだった。いちばん簡素で、置かれているのは必要最低限の家具だけ。余白が広いぶん、空間がすっと呼吸しているみたいに見える。
窓辺の大きな畳敷きが、特に目を引いた。適当に置かれた座布団がいくつか。隣には背の高い本棚。肩肘張らない、くつろぎの形。
私は、ここの光が好きだった。明るく、透けるようで、遮るものが何もない。心の内側まで、伸びをする。
「ここにする」
自分でも驚くほど、かすかな笑みがこぼれた。
「うん、ここ! ここにしよう!」
母はそれだけで、世界一幸せそうに顔を綻ばせ、勢いよく振り向く。
「中村さん。茜音の荷物を、すぐ上げてちょうだい!」
後ろに控えていた執事の中村が、一瞬だけ動きを止め、それから恭しく腰を折った。
「奥様。お嬢様は悠一若様とご一緒に戻られましたので……お荷物は、ほとんどお持ちではありません」
母の表情がふっと固まり、私の手を握る力が強くなる。
「いいの、ないなら買えばいいわ」
母は息を吸い、迷いなく言い切った。
「中村さん。各ブランドに連絡して。今季の新作を全部、ここへ。お洋服、靴、バッグ……茜音の年齢に合うものを全部よ。家で選べるようにして」
一拍置き、さらに。
「宝飾品も同じ。それからディーラーにも電話して。アストンマーティンの世界限定のピンクのモデル、まだ手に入るか確認して。茜音に一台、押さえて」
室内の空気が、すっと静まった。
菅田悠一は軽く口笛を吹き、慣れた様子で肩をすくめる。母の大盤振る舞いは、日常なのだろう。
けれど執事の中村は、顔色が微かに変わった。躊躇い、そして一歩前に出る。
「奥様、旦那様……お嬢様はまだお戻りになったばかりです。さすがに、少々……過分では」
その言い方には、薄い監視と不賛成が混じっていた。私を見る視線にも、探りがある。
まるで――突然入り込んできた、意図の分からない「よそ者」を見るみたいに。
執事にしては、口を出しすぎだ。
私は眉をわずかに動かすだけで、何も言わなかった。志水家で二十年、この手の「上に媚び、下を見下す」顔は見飽きている。相手をする価値もない。
だが、母の顔から温度が消えた。
「中村さん。どういう意味? 私が自分の娘に物を買うのに、誰の許可が必要なの」
それまで黙っていた父も、重く声を落とす。視線が鋭い。
「中村さん。菅田家で三十年働いているなら、礼儀は一番分かっているはずだ。茜音は私、菅田直木の実の娘だ。菅田家の正当なお嬢様。あの子が過去二十年で受けたものを思えば、私たちがどれほど尽くしても足りないくらいだ。服や車程度で、何が過分だ」
父は一言ずつ、釘を打つ。
「今後、茜音のことは家の最優先事項だ。欲しいものがあるなら与える。同じ言葉は、二度と聞きたくない」
執事の中村の背中が、目に見えて強張った。冷や汗がにじむ気配。
越えてはいけない線を越えたのだ、と――今さら理解したのだろう。
「旦那様、奥様……失礼いたしました。私の差し出口でございました。どうぞ、お咎めを」
「下がれ」
父の声は冷たい。
執事の中村は赦しを得たように、深く頭を下げて退いた。去り際、視線の奥にかすかな不満が走ったのを、私は見逃さなかった。
邪魔が消えると、母はようやく表情を和らげ、私に向けて柔らかく微笑む。
母は部屋のウォークインクローゼットまで案内した。中はがらんとしていて、やけに広い。
「ここはね、これから全部、埋まるのよ」
未来を描くみたいに言って、そして唐突に、母の声が揺れる。ためらいと探り。
「茜音……ひとつ、相談してもいい?」
私は母を見る。
母は私の手を握り直し、緊張した顔で言った。
「……あなたには、妹がいるの。夢香」
言葉を選びながら、壊れ物に触れるみたいに慎重に。
「私の子じゃない。でもこの二十年、私たちは実の娘みたいに育ててきたの。情も、あるのよ」
母の目が赤くなる。
「あなたにとって不公平なのは分かってる。でも……お願い。夢香を、この家に住まわせてあげられない? 養女としてでいいの。安心して。菅田家のこと――会社も財産も、全部あなたのもの。夢香には、ただ……居場所だけを」
母は私の目をまっすぐ見た。不安がそのまま、瞳に張り付いている。私が傷つくのが怖い。怒るのが怖い。そういう顔。
私は少しだけ黙り、志水寧々の甘ったるい芝居と、志水家の露骨な偏りを思い出す。次に、目の前の母を見る。私が少しでも不公平を感じないか、怯えるほどに気にしている母。
――聖人みたいだ、と思った。
「理解してる」
私は淡々と口を開く。
「二十年育ててきたなら、情があるのは当然です。急に追い出したら、むしろ薄情に見える」
母が一瞬、言葉を失う。
次の瞬間、堪えきれなかったように涙が溢れた。母は私をきつく抱きしめる。
「茜音……っ。なんて優しい子なの。なんて、心の広い子なの……!」
肩越しに、震える声が落ちてくる。
「お母さん、これから倍にしてあなたを大事にする。絶対に、茜音に一つも我慢させない」
母の温かい腕の中で、二十年、張り詰めたままだった心の弦が――音もなく、ほどけていくのが分かった。
