第1章
「カチリ……」
骨が砕ける音が、異様なほどはっきりと耳に届いた。
エラはバルコニーの冷たいタイルにうつ伏せになり、激痛のせいで喉からは一切の声が出ない。
細いピンヒールが容赦なく彼女の右手を踏みつけ、尖ったヒールの先が指の関節の上を行ったり来たり――ぐりぐりと、潰すように擦りつけられる。
宝飾デザイナーにとって、この手は……もう終わりだ。
その靴を辿って視線を上げると、そこにあるのはヴィアンの華やかなドレスの裾。
「お姉ちゃん、恨まないでね」
ヴィアンは見下ろすようにエラを眺め、蜜のように甘い声で囁く。
「クレルモン家に天才デザイナーは一人で十分なの。お姉ちゃんが生きてたら、お兄ちゃんたちだって安心して全部を私に回してくれないでしょ?」
顔じゅう血まみれのまま、エラは必死に頭を持ち上げた。
少し離れたリビングでは、実の兄であるルイとマシューがバルコニーに背を向け、ワイングラスを傾けながら呑気に談笑している。
振り返る者は、ひとりもいない。
視界が、にじむ。
そのとき――バルコニーの端で転がっていたスマートフォンの画面がふっと点灯した。
反射的に目を向けた瞬間、胸に激痛。ヴィアンの蹴りが叩き込まれる。
身体がふわりと宙に浮き、二十二階の高みから落下した。
冷たい風が喉へと流れ込み、息が奪われる。
耳に残った最後の音は、ヴィアンの柔らかく、勝ち誇った笑い声。
……
「大会の枠をヴィアンに譲れ」
氷のように冷たい低い男の声が、突然、耳の奥へ突き刺さった。
エラは弾かれるように目を開ける。
血はない。指先にあの激痛もない。肌を裂くような寒風も――感じない。
柔らかな大きなベッドに座ったまま、彼女はシーツを強く握りしめていた。
サイドテーブルのスマートフォンが点いたまま、日付表示が目に入る。
オースティン国際ジュエリーデザイン大会まで47日。
家族がヴィアンの虐待を黙認し、彼女が折られて死ぬまで――10か月。
……生き返った。
「聞いてるのか?」
寝室の扉口に立つルイはスーツ姿で、苛立ちを隠しもしない。
潰された指の痛みがまだ残っているようで、エラはルイの顔を見据えた。
そこにあったのは、かつての媚びではなく、冷えきった眼差し。
布団を跳ねのけ、裸足のまま床へ降りる。
一歩、また一歩。彼の前まで歩み寄って、言った。
「聞いた。……でも、嫌」
ルイの眉が即座に寄った。
おかしい。
この一年、ようやく「連れ戻された」妹は常に従順で、口答えなど一度も――。
「ふざけるな」ルイが吐き捨てる。「今回の大会はクレルモン家の体面がある。ヴィアンのほうが知名度も――」
「知名度?」
エラは鼻で笑い、言葉を断ち切った。
「三か月前に服飾から転向したばかりで、スターライトサファイアとカラーチェンジガーネットの区別すらつかないのに? それを『知名度』って言うの?」
ルイの喉仏がひくりと動き、顔が陰る。
「家のリソースがまだ完全にあいつに寄ってないだけだ」すぐに別の理屈へ切り替える。「これは父さん母さんの意思で――」
「なら、本人が来ればいい」
もう無駄口に付き合う気はない。
エラは背を向けてクローゼットを開け、トレンチコートを引き抜いて羽織り、身分証をバッグへ放り込む。
ルイはその強硬さに言葉を詰まらせた。
「みんなリビングで待ってる。意地張るなよ」
吐き捨てるように言い残し、彼は階下へ消える。
エラはバッグのファスナーを引き上げた。
前の人生。彼女はこの部屋で泣いて折れ、枠を差し出した。
その先に待っていたのは、じわじわと壊される日々と、死。
今度は違う。
誰にも、何ひとつ奪わせない。
扉を押し開け、螺旋階段を下りる。
リビングはシャンデリアが眩しい。
ヘレンがソファの中央に座り、ロバートは書類に目を落としている。マシュー、ジェイソン、アレックがそれぞれ角に陣取っていた。
ヴィアンはヘレンにぴたりと寄り添い、ホットココアを抱えている。
エラの姿を見つけると、すぐさまか弱く無垢な笑みを浮かべた。
吐き気がするほど見慣れた顔。
エラは表情を動かさず、ちらりと視線を走らせる。
「やっと降りてきたのね」
ヘレンがエラのバッグを見て眉をひそめる。
「荷物なんて、何のつもり?」
「片づけるの。場所、空けてあげる」
エラはスマートフォンをポケットへ入れた。
「それと報告。出場枠は私が自分で掴んだ。誰にも渡さない」
ヘレンが「バンッ」とカップを置く。
「ヴィアンのほうがクレルモン代表にふさわしいのよ。譲ったって肉が削れるわけじゃないでしょう?」
「ふさわしい?」
エラは首を傾げてヴィアンを見た。
「じゃあ今ここで言って。今回のテーマ『永遠の屈折』、審査員が重視する加工の要点は何?」
ヴィアンの笑みが固まる。指がカップの縁を強く掴んだ。
リビングが静まり返る。
エラは間を与えず、突き刺す。
「二素材嵌合の技法と、光学パス設計。基礎の核すら知らないのに、国際大会で恥を晒しに行くつもり?」
ヴィアンの目が瞬時に赤くなった。
そのままヘレンの胸へ身を縮め、涙をぽろぽろ落とし始める。
「ごめんなさい……。私、やってみたいって思っただけで……お姉ちゃんが嫌なら、ほんとに、無理強いなんて……」
ヘレンがヴィアンを抱きしめ、振り向いてエラを怒鳴った。
「見なさいよ! ヴィアンをどんな気持ちにさせたの! 大会に出たいって言っただけでしょう? 言い方ってものがある!」
「ある?」
エラは怒りのあまり笑ってしまった。
踏み砕かれた骨の記憶が、脳裏に閃く。
「彼女が出たいなら、自分で資格を取ればいい。私の枠を奪うために家族総出で迫ってきて、それが当然だと?」
「迫ってなんかない!」
マシューが「バンッ」とスマートフォンをソファへ叩きつける。
「お前が少し大人になれば済む話だ。クレルモン家が一年も養ってやったんだぞ――」
「大人?」
エラは前へ出て、バッグから一枚のカードを取り出し、テーブルに「バンッ」と叩きつけた。
「私を連れ戻したときのカード。1円も使ってない」
続けて折りたたんだ明細を置く。
「この一年の食費と住居費、合計8万7千ドル。元金に利息をつけて、このカードに戻した」
ヘレンの顔色が見る間に悪くなる。
「今日から、クレルモンの姓とは何の関係もない」
エラはバッグを肩に掛け、そこにいる全員の顔を順に見回した。
「可愛い娘は、あなたたちで大事に甘やかして」
玄関へ向かう。
「その扉を出たら、二度と戻れないと思いなさい!」
ヘレンが背後で叫ぶ。
エラは足を止めない。
ドアノブを引き、夜の闇へ踏み出した。
扉が閉まる瞬間、ポケットの録音停止を押す。
屋敷の外、アオギリ並木の通りへ出ると、夜風が冷たく、トレンチを突き抜けた。
ポケットのスマートフォンが震える。
12年間、連絡先に残し続けた名前からのメッセージ。
エイデン・グレイ。
『家と揉めたって聞いた。落ち着け。今夜、会いに行く』
エラはその文面を見つめ、親指を画面の上で止めた。
前の人生――死ぬ直前。
ヴィアンのスマートフォンに弾けた通知を、彼女ははっきり見ている。
送信者は、エイデン・グレイ。
内容は四文字だけ。
『手はずは整った』
