第2章
エラはメッセージを2秒だけ見つめ、ためらいなく削除した。
タクシーはクレルモン邸の外を走るアオギリ並木を抜け、旧市街へ向かう。エラは後部座席に身を沈め、スマホのメモを開いた。指が忙しなく踊り、短い行が次々と増えていく。
まず、自分のスタジオを登記する。
次に、大会の出場枠を死守する。
最後に――前の人生で彼女を突き落として殺した連中を、一人残らず逃がさない。
アパートに戻って最初にしたのは、大会運営委員会への電話だった。
窓辺に立ったまま、エラは単刀直入に切り出す。
「ワトソンさん、私、エラです。オースティン国際ジュエリーデザイン大会の招待って、私個人宛て……ですよね?」
受話器の向こうは、鼻にかかった中年男の声だった。
「もちろん個人だよ」
ワトソンが書類を繰る音が、ざらりと響く。
「招待状には君の名前がはっきり書いてある。クレルモン家とは何の関係もない。どうした? 誰かに変なことでも吹き込まれたか?」
「いいえ。確認したかっただけです。ありがとうございます」
通話を切った瞬間、胸の奥の霧がすっと晴れる。
この枠は――1年前、美術館で個展を開いたとき、審査員にその場で評価されて出された「個人招待」だ。
ルイはそれを、「家が取ってやった」と平然と嘘をついた。
次にエラがかけたのは、弁護士の友人ノラだった。
「個人スタジオの登記?」ノラが息をのむ気配がする。
「ようやく腹を括ったのね?」
「最速で」エラは言う。
「サインが必要な書類は、今日中に送って」
「わかった。2日ちょうだい」
ノラは一拍置き、まだ迷いを残した声で続けた。
「でもエラ、本当にいいの? クレルモン家が――」
「決めた」
それだけ告げて切る。
部屋を軽く片づけたあと、エラはPCの前に座り、登記要件を洗い出し始めた。
クレルモン家の報復は、想像より早かった。
3時間も経たないうちに、ノラから折り返しが来る。声が歯切れ悪い。
「エラ……マシュー・クレルモンから電話があって。最近、私があなたの手続きに関わってないかって、遠回しに探ってきた」
スマホを握る指に力が入り、関節が白くなる。
「何て?」
「直接は言わないんだけど……クレルモン・グループが、うちの事務所の大口顧客だって」
ノラがため息をつく。
「個人的にはもちろん味方。でも、共同経営者が止めに入ったら――」
「わかった」
エラは言葉を遮った。
「無理しないで。彼らが手を出せない独立系を探して。そこにつないでくれればいい」
「うん……考える」
少し間を置いて、ノラが思い出したように言う。
「ウェスター通りに新しい小規模の事務所があって、評判は悪くない。連絡先、探して送るね」
「ありがとう、ノラ」
通話を切り、エラは椅子にもたれて目を細めた。
……動きが前よりずっと早い。
前は1週間くらいかけて妨害してきたのに、今回は1日も経っていない。今日の態度が、よほど癪に障ったのだろう。
そう考えていると、スマホがまた鳴った。
画面に出た名前は、エイデン・グレイ。
出ると、低く抑えた声が耳に刺さる。
「本当に家と縁を切ったのか? 衝動的すぎるんじゃないか。親族だろ」
「親族?」
エラは口元だけで笑う。
「奪って人に渡して、こっちには『寛容になれ』って迫るのが親族なの?」
「大会の枠のことか」
エイデンは少し間を置く。
「ヴィアンが言ってた。宝飾デザインが本当に好きで……君が譲るなら、って」
「ヴィアンが、あなたに?」
「たまに連絡は取ってる」
温度のない声が返ってくる。
「妹なんだし、気にかけるのは普通だろ」
「普通ね」
エラは指先で机を、とん、とん、と叩いた。
「でも枠のことは、あなたが口を挟む話じゃない。これからは家の人間に、私のことを探らないで」
「おい、待――」
最後まで言わせず、エラは切った。
通話履歴をスクリーンショットし、新しく作った暗号化フォルダへ保存する。フォルダ名は『証拠』。
それから3日。ノラが紹介してくれた事務所を通し、エラは個人デザインスタジオの登記を完了させた。
名前は――『レイン』。
ただ、順調とは言いがたかった。
ルイがサン・ロランの商圏に話を流し、取引先へ「エラと関わるな」と暗に圧をかけたのだ。三社に連絡しても返事は曖昧なまま、やがて立ち消えになる。
……最初から、クレルモン家のサプライチェーンなど当てにしていない。
エラはPCを開き、埃をかぶっていた連絡先を引っぱり出した。
リオン・フィッシュ。
前の人生で偶然知り合った独立の宝石カッター。腕は一級。ただし癖が強く、有名ブランドの下請けは絶対にしない。前は合作する前に死んだ。今度は逃さない。
電話をかけると、苛立った声が返ってくる。
「誰だ」
「リオンさん。エラです。ラスキン・オークションであなたが切ったパパラチアサファイアを見ました。87面、角度誤差はどれも0.3度以内」
向こうが5秒沈黙した。
「……何者だ?」声音がわずかに柔らかくなる。
「独立デザイナーです」エラは言った。
「高難度の二素材嵌合カットが必要なデザインがある。あなたにしかできない」
また沈黙。
やがて、リオンの声にほんの少し興味が混ざった。
「図面を送れ」
送信を終え、エラはようやく大きく息を吐いた。
――そのとき、スマホ画面がまた光る。
オースティン大会運営委員会からの公式メールだった。
件名は、参加資格変更申請について。
開いて、一文字ずつ追う。
指が画面の上で止まり、しばらく動けなかった。
内容は簡潔だ。
「参加者本人の辞退」を理由に、エラの出場枠を別の選手へ譲渡する申請が出されたという。
申請者欄には、ルイ・クレルモン。
添付には、エラの直筆サイン入りの辞退声明。
――その署名は、偽造だった。
