第3章
エラは偽造された声明書を拡大し、隅々まで目を通した。
――出来がひどい。
筆先の入りも、抜きも。角度が彼女の癖と15度ずれている。アルファベットのEだって、二本目の横線は本来まっすぐに引くのに、この声明では右へ跳ね上がっていた。
けれど、丁寧に見比べない限りは十分に紛れる。運営は24時間以内に、彼女の参加資格を取り消してしまうかもしれない。
エラは即座にワトソンへ電話をかけた。
「ワトソンさん、参加資格の変更申請についてのメールを受け取りました。先に言っておきます。私は、辞退の書類に一切署名していません」
受話器の向こうで、書類をめくる乾いた音。
「申請は私のところに回ってきた。署名が……正直、本人だと思った」
「違います」エラはきっぱり言い切る。「偽造です。エントリー時の原本サインを出して、筆跡照合してください」
数秒の沈黙。
「申請者はルイ・クレモン。クレモン・グループの社長だ。筆跡照合の手続きに進む。そういうことでいいんだな?」
「はい。進めてください」
「わかった」椅子がかすかに鳴った。「照合には48時間。その間、君の参加資格は一時凍結になる。どちらの側も操作できない」
通話を切ると、エラは指先で机を軽く叩き、思考を回した。
凍結――つまり、ヴィアンもこの枠を取れない。それで十分。48時間後、結果が出れば、ルイの偽造は逃げ道を失う。
ただ、この件を運営の内部処理だけで終わらせる気はなかった。
エラはPCを起動し、偽造声明のスクリーンショットと運営メールの原文をまとめて暗号化し、新しい担当弁護士のマーティンへ送信した。
そして連絡先を開き、別の番号へかけ直す。
「ウィンザーさん?」
向こうから聞こえるのは、規則正しいキーボードの音。やがて女の声が乗った。
「エラ? 久しぶりね。どうしたの?」
ウィンザー・デイビス。サン・ロランの独立系メディア『週刊エッジ』の編集長。
前の人生、エラが展覧会を開いた際に知り合い、作品を高く買ってくれた。だがクレモン家の圧力で、いつしか距離ができた相手でもある。
「独占ネタがあるの」エラは前置きを捨てた。「クレモン・グループの長男が署名を偽造して、独立デザイナーの出場枠を奪おうとした件。興味ある?」
カタカタと続いていた音が、ふっと止まる。
しばらくして返ってきた声は、わずかに震えていた。
「……詳細を」
「48時間後に、証拠のチェーンを全部渡す。運営の筆跡鑑定報告書も含めて」
「成立」
通話を終えると、エラの口元がようやく、わずかに緩んだ。
翌晩。クレモン邸のダイニングで、最初に鳴ったのはヘレンのスマートフォンだった。
「ルイ」ヘレンはナイフとフォークを置き、眉を吊り上げる。「運営からよ。筆跡鑑定が通らなかった、エラの参加資格は復活。しかも偽造書類の提出について、書面で説明を求めてる!」
ルイの手が、ステーキの上でぴたりと止まった。
マシューが顔を上げる。
ヴィアンは水の入ったグラスを持つ指だけ、わずかにこわばらせた。視線が一瞬、泳ぐ。
「ありえないだろ」
ルイはスマホを奪い取るように受け取り、読み終えるや否や、こめかみが脈打った。そのまま伏せてテーブルへ叩きつける。
「些細なことだ」険しい顔で言う。「後で運営と話をつける」
「運営だけの話じゃないだろうな」
そう口を開いたのは、ずっと黙っていたアレックだった。
アレックは離れた席からスマホ画面を皆に向ける。表示されていたのは『週刊エッジ』の速報トップ。
『クレモン家長男、署名偽造疑惑 独立デザイナーの出場資格を強奪か』
記事はエラのフルネームこそ伏せていたが、偽造声明とメールのスクリーンショット、運営の凍結通知まで添えられている。言い逃れなど不可能だった。
ルイの顔から血の気が引く。
ヘレンの手からナイフとフォークが皿へ落ち、「カラン」と乾いた音がした。
マシューが歯を食いしばる。
「……あいつがやったのか?」
ヴィアンの指がきゅっと締まり、グラスの水面が揺れた。慌てて俯き、長い髪で半分の顔を隠す。震える声。
「全部、私のせい……私が出たいなんて言ったから……」
そして顔を上げ、真っ赤な目でルイを見る。
「お兄ちゃん……私、枠なんていらない。お姉ちゃんに謝って、この件、終わらせてもらえないかな……?」
ヘレンはすぐにヴィアンを抱きしめ、憎悪の矛先をエラへ向けた。
「あなたのせいじゃない! あの恩知らずの――」
「もういい」
ロバートがナプキンを重く置いた。顔色は暗い。
「ルイ。署名偽造は……お前の独断か?」
ルイは即答できなかった。唇が細く結ばれ、視線が無意識にヴィアンへ流れる。
三日前。ヴィアンが泣きながら駆け込んできて言ったのだ。エラが運営と裏でルールを変え、クレモンの名を大会から外そうとしている、と。焦ったルイが、偽造という手段に走った。
ヴィアンはその視線に気づき、すぐ目を伏せる。唇を噛み、罪悪感と無垢を混ぜた表情。
ルイは言いかけた言葉を飲み込み、視線を戻した。
「……俺の判断だ」
ロバートの掌がテーブルを叩き、赤ワインが輪を描いて揺れる。
「影響はお前が片づけろ。クレモンの名誉をこれ以上傷つけるな」
ルイは顎を固めた。
「片づける」
スマホを取り、エラへ直電する。
すぐ繋がった。
「エラ」ルイは怒りを押し殺し、傲慢さだけを残した声で言う。「今すぐ記事を下げろ。運営の件は二度と起こさないと約束する」
向こうが2秒、沈黙する。
それからエラの冷えた声。
「ルイ・クレモン。あなたは私の署名を偽造して、出場枠を盗もうとした。消すべきは記事じゃない。動かしちゃいけない手を動かした――その報いよ」
「お前――」
「それと、正式に通知する」
エラの速度は変わらないのに、ルイの背が張り詰める。
「偽造声明と、運営とのやり取りの全記録は、全部弁護士に提出した」
ルイの呼吸が一拍止まった。
「48時間以内にクレモン家が公開謝罪を出さないなら、次はメディアじゃ済まない」
「――裁判所からの召喚状よ」
ダイニングが沈黙に沈む。
スピーカー通話になっていた。エラの言葉は全員の耳に突き刺さる。
ヘレンは真っ赤になり、口を開いても音が出ない。
マシューは椅子の肘掛けを握り潰しそうに握る。
ヴィアンは瞬きをした。
ここまで大きくなるなんて、思っていなかった。
彼女が思い描いていたのは、エラが泣きながら運営にすがり、そして枠が自分へ落ちる未来。――こんなはずじゃない。
離れた席のアレックは、水のグラスを握る手の甲に青筋を浮かべていた。
通話は切れた。
沈黙。
ヴィアンはテーブルの下で拳を握り締め、爪を掌に食い込ませる。
旧市街の屋根裏部屋。
エラはスマホを置き、窓辺へ行って無意識に窓を開けようとして――指が冷たい枠に触れた瞬間、身体がびくりと後退した。
ここは四階。
エラは下の地面を見下ろし、黙って手を引き、窓をさらに固く閉める。
それから机へ戻り、『証拠』フォルダを開いた。
下部に、まだ開いていないサブフォルダがある。
ファイル名は二文字だけ。
『バルコニー』
