第4章 人前でひざまずく

スマホの画面がいったん暗転して、間もなくまた光った。着信。

エイデン・グレイ。

エラはその名前を二秒だけ見つめ、迷いなく通話を切った。

前の人生、その名はほとんど彼女の人生そのものだった。

孤児院での遊び相手。やがて恋人。エイデンは、エラの記憶の隅から隅まで入り込んでいる。

徹夜でデザイン画を引いていれば熱いコーヒーを差し入れし、出自をあげつらわれれば真っ先に庇い、賞を取れば誰より嬉しそうに笑った。

エラはそれを愛だと思っていた。だから告白されたとき、何の躊躇もなく頷いた。

――二十二階から落ちる、その最後の一秒までは。

ヴィアンのスマホに弾けた四文字が、刃物みたいに視界へ突き刺さったのだ。

「手はずは整った」

整ったって、何が?

あの夜、バルコニーへ呼び出したのはエイデンだった。

大事な話があるから、先にバルコニーで待っていてくれ――そう言った。

待っていたのはエイデンじゃない。

指の骨を踏み砕く細いピンヒールと、二十二階の高さから吹き上げる冷たい風だった。

エラは椅子の背にもたれ、無意識に指先でスマホの縁をなぞる。

好意なんかじゃない。

スマホがぶるりと震え、ブロック済み一覧から新しいメッセージが弾き出された。

【エラ、住む場所変えた? 住所を教えて。直接話したい。今ひとりで外にいるなんて、俺は本当に心配だ】

エラはメッセージを開き、親指を削除ボタンの上で止めたまま、冷えた目で眺める。

心配?

……早く死なれたら困る、の間違いでしょう。

彼女はその文面もスクリーンショットし、フォルダへ保存する。続けて着信もメッセージも完全に遮断し、履歴ごと消した。

全部終えると、エラは立ち上がり、作業台へ向かう。

机の上には新しく引いたラフが数枚。コンペ作品の、初期構想だ。

鉛筆を取り、線を落とそうとして――指先がかすかに止まる。

あの指。前の人生でヴィアンにヒールで何度も碾られた場所が、今は何事もなくそこにある。

それでも骨の砕ける感触だけは、魂に刻み込まれたみたいに離れない。

エラは深く息を吸い、手を動かした。紙の上に、まっすぐな線。

階下から、言い争うような騒がしい声が上がった。人の気配がざわついている。

気にしない。ペン先が、滑らかな弧を描く。

もう誰にも、二度と――私のバルコニーに踏み込ませない。

二日後の午後。

エラは旧市街の独立系宝石ギャラリーへ足を運び、新しく入った原石を見に行った。

ここでは常連だ。店主が、彼女のためにバイカラー・トルマリンを一本取り置いていた。

品質は上々、値も良心的。エラは迷わず購入し、住まいへ戻る。

午後の団地は静かだった。昼寝から起きた老人がのんびり歩き、決して高級住宅街ではないけれど、クレルモン家の絢爛さより、ここはずっと安心できる。

道の両脇には梧桐が並び、葉の隙間から落ちる木漏れ日があたたかい。

エラは目を細め、その短い平穏を味わった。

――ふいに背後から、聞き慣れた声。

「お姉ちゃん」

甘ったるい声が、頭から氷水をぶちまけるみたいに体温を奪った。

ゆっくり振り返ると、そこにいたのはヴィアン。しかもその後ろに、アレック・クレルモン――兄が立っている。

アレックは兄たちの中でいちばん口数が少ない。

前の人生、彼はエラを助けもしなければ、露骨に迫害に加担したわけでもない。ただ隅に座って、温度のない石像みたいに黙っているだけだった。

けれど今、ヴィアンの背後に立つ彼の片手はポケットに突っ込まれ、重い視線がエラへ落ちている。そこにあるのは、善意なんかじゃない。

「お姉ちゃん、ずっと探してたの」ヴィアンが早足で寄ってくる。目元はもう赤い。

「こっちに引っ越したって聞いて、アレック兄さんに頼んで何日もかけて住所を調べてもらったの。どうして電話に出ないの? どうして私の連絡先を消したの?」

エラは彼女を二、三度眺め、落ち着いた声で言った。

「もう、あなたたちとは関係ないから」

「お姉ちゃん、そんな言い方しないで」ヴィアンの声が震え、袖を掴もうと手を伸ばす。「怒ってるのはわかる。でも全部、家の人たちの考えであって、私のせいじゃない。私、名額を奪うつもりなんて一度も――お兄ちゃんたちが……」

「何を?」エラは身を引き、手を避ける。「あなたのほうが、私よりふさわしいって?」

散歩中の人たちがこちらの騒ぎに気づき、足を止めて見てくる。

ヴィアンの目がさらに赤くなった。唇が小さく震える。そして半歩下がり、声だけを少し張った。周囲の誰もが聞ける音量で。

「お姉ちゃん、もし本当にそんなに私を憎んでるなら、今日ここで、みんなの前で謝る」

エラの眉がかすかに寄った。

おかしい。

ヴィアンが人前で頭を下げるタイプじゃないのは知っている。

彼女の涙には値札がついている。弱さの演出は、必ず利益に変わる。

「謝罪なんていらない」エラは踵を返して歩き出す。

「お姉ちゃん!」

ヴィアンが突然、エラの手首を掴んだ。

エラはその手を見下ろす。背骨を冷たいものが駆け上がった。

――この手だ。前の人生、笑いながら彼女をバルコニーへ追い詰めた手。

「離して」エラは振りほどこうとする。

その前に、アレックが一歩進み出て、進路を塞いだ。

背が高い。肩幅も広い。そこに立たれるだけで、壁みたいに圧がある。

「エラ、話も最後まで聞けないのか?」アレックの低い声は、押さえつけるように響く。「ヴィアンがわざわざ来たんだ。その態度は何だ?」

「私がどんな態度でいようと、あなたに関係ある?」エラは目を逸らさない。「クレルモン家のことは、私には何の関係もない」

アレックの目尻がぴくりと動いた。

ヴィアンがふっと手を離し、うなだれる。肩が小刻みに震え、涙がぽとぽととタイルへ落ちた。

立ち止まる人が増える。覗き込むような視線。

ヴィアンは俯いたまま周囲を見回し、次にアレックの胸元――ピンの形をした小型カメラへ目をやり、満足げに口元をわずかに上げた。

いい。観客は十分。エラも感情的になっている。

このまま配信すれば、反響は取れる。

「お姉ちゃん……」ヴィアンは涙で濡れた目を上げ、嗄れた声で、今にも泣き崩れそうに言葉を絞り出す。

「お願い、家に戻って。ママ、毎晩泣いてる。パパの血圧もずっと不安定で……お兄ちゃんたちだって後悔してる。私たち、家族なんだよ……」

そう言いながら、一歩前へ出て。

次の瞬間、膝が折れた。

人目も構わず、まっすぐに――地面へ跪いた。

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