第5章 改めて名乗る
周囲から、一斉に息を呑む気配が広がった。
プラタナスの葉越しの陽光が、ヴィアンの震える肩にまだらに落ちる。尖った顎先には涙が珠になって、落ちる寸前でぶら下がっていた。
少しだけ顎を上げ、エラを見上げる。その姿は――誰が見ても胸が締めつけられる。
すでにスマホを構える者もいる。
エラは、目の前で跪くヴィアンを見下ろしたまま、動かない。言葉もない。
その表情を、知りすぎるほど知っていた。
前の人生でヴィアンがこれを見せたあとの結末は、いつも同じだった。家族総出で、矛先は必ず自分へ向く。
「お姉ちゃん、叩いても怒鳴ってもいい……だから、お願い。家に帰って、お母さんの顔だけでも見て。ほんとに……ほんとに会いたがってるの……」
見物人の輪から、ひそひそ声が漏れる。
「妹、かわいそうすぎない……?」
「姉のほう、冷たすぎでしょ」
「跪かせといて、起こしもしないの?」
エラは、ゆっくりと腰を折った。
ヴィアンの瞳に、ほんの一瞬だけ愉悦がよぎる。身体がわずかに前へ傾く――怒りに任せた平手打ちを受け止める準備。殴られるのは怖くない。怖いのは、殴られないことじゃない。エラが感情を崩した瞬間こそ、こちらの勝ちなのだから。
だがエラは手を上げなかった。
ただ、ヴィアンの耳元へ口を寄せ、二人にしか届かない声で言った。
「ヴィアン。二十二階の風って、どれくらい冷たいか知ってる?」
ヴィアンの身体が、ぴたりと固まった。
二十二階――?
エラは固まった顔を見つめ、口角をわずかに吊り上げる。声は出さず、口の形だけで、ゆっくりと一文字ずつ刻んだ。
『知らなくてもいい。でも、いつか。必ず、味わう』
ヴィアンはその意味を、ぼんやりと――だが確実に読み取ってしまい、背筋が凍りついたように動けなくなる。
エラは身を起こし、一歩だけ退く。
「跪くの、もう十分でしょ。地面、冷えるから」
そう言い捨てると、ヴィアンの横をすり抜け、振り返りもせずアパートの入口へ向かった。
アレックが眉を寄せ、咄嗟に腕を伸ばして止めようとする。だがエラは早足のまま鉄の扉へ滑り込み、カチリ、と乾いた音がして鍵が落ちた。
背後でヴィアンの泣き声が急に大きくなる。けれど、エラは一度も振り向かない。
部屋へ戻るなり、エラは冷たい水をコップ一杯、息もつかず飲み干した。次の瞬間には作業台へ向かい、手を動かす。
感情を揺らがせるな。あんなものに、価値はない。
鉛筆を取り、スケッチへ新しい発想を数本、鋭く差し込む。
気づけば、それから三時間。
顔を上げると、窓の外はすでに薄暗くなっていた。肩を揉み、何気なくスマホを取る。
画面は通知で埋め尽くされている。
『週刊・エッジ』公式アカウントへのメンションが数十件。個人アカウントの友だち申請は百件単位で増え、登録したばかりのスタジオ公式ページにまでコメントが付いていた。
エラは眉をひそめ、SNSを開く。
トレンドが、そこに並んでいた。
#クレルモン姉妹路上トラブル#
#姉が妹を路上で土下座させた#
#デザイナーエラとは#
指でひとつずつ辿っていく。
最初に拡散されたのは、編集された短い動画だった。泣き崩れながら地面に跪くヴィアンが、顔を上げ、しゃがれた声で懇願する。
「お姉ちゃん、叩いても怒鳴ってもいい……」
そして動画の中のエラは、無表情で立ち尽くし、上から見下ろしたまま一言も発しない。
添えられた文は簡素だ。
「姉妹の間に何が? 大会の出場枠が原因で姉は家と縁を切り、妹が帰宅を求めて土下座するも無視されたらしい。みんなはどう思う?」
コメント欄は炎上していた。
【何この性格最悪の姉??人前で土下座させるとか無理】
【クレルモン家の姉でしょ? 引き取られて1年でトラブルばっかって聞いた】
【ヴィアン可哀想。あんな優しそうな子にひどい。エラって宝飾デザイナー? 作品は知らないけど態度だけはでかい】
理性的な声も、少しはある。だがすぐ罵倒に沈められる。
しばらく眺めて、エラは気づいた。
――ヴィアンは、来たときに配信まで回していたのだ。
全身が、ぶるりと震えた。反射でスマホを机へ伏せる。
膝の奥に、前の人生の骨が砕けた痛みが蘇る。そして自分を二十二階から落とした女が、今この瞬間、数千万に「かわいそう」「守ってあげたい」と慰められている。
反吐が出る。
エラは目を閉じ、長い沈黙ののちに開いた。
焦るな。
欲しいのは謝罪じゃない。公道だ。そして公道は、感情で奪い取れるものじゃない。
彼女は『証拠』フォルダを開き、動画リンクとトレンドのスクショをまとめて保存した。
続けてウィンザーへメッセージを送る。
「今日の動画は編集と演出。こちらで完全な時系列を組んで、証拠が揃い次第送る」
送信した瞬間、インターホンが鳴った。
エラはドアへ寄り、慎重に覗き穴から外を見る。
廊下に立っているのは男だった。濃いグレーのシャツ。袖を無造作に肘下まで捲り上げ、骨ばった手首のラインが覗く。眉をわずかに寄せ、明滅するセンサーライトを見上げていた。
リオン・フィッシュ。
エラは一瞬固まり、ドアを開けた。
「どうして住所が……」
「午後、返信くれただろ。忘れたか」
そこでようやく思い出す。確かにやり取りの中で、リオンは『直接話したい』と言った。スタジオの所在地を送るつもりが、忙しさでミスって自動位置情報が自宅になり、確認せず送ってしまったのだろう。
エラは二秒、無言になった。……常備のコーヒーが必要だ。
「用件は?」
リオンは答えず、書類袋から数枚の紙を抜き取って差し出した。
彼女の設計図だ。
ただし、そこには赤いペンの注釈がびっしりと埋まっている。整った字面なのに、刃物みたいに鋭い。要所の構造の横に、短いメモが的確に刺さっていた。
「ここ。二素材嵌合の移行層、0.3mmって書いてるが、トルマリンはモース硬度が7~7.5。組む金属との熱膨張係数の差が大きすぎる。0.3じゃ持たない。最低でも0.45だ」
エラは図面を受け取り、赤字を追う。瞳孔がわずかに縮んだ。
「それからここ。光学パスの反射角を42度に設定してるが、選んでるのはバイカラー・トルマリンだろ。赤と青で屈折率が違う。赤は41.7、青は42.3。別々に計算し直せ」
全部、正しい。
小数点第一位まで精密に合っている。しかも、エラがわざと残していた構造上の難所まで赤ペンで丸が付けられ、その横に新しい荷重分布図が描かれていた。
エラは顔を上げ、初めて真正面からこの男を見る。
リオン・フィッシュは二十五、六くらいに見える。深いブラウンの髪はわずかに癖があり、顎のラインが硬い。眼は淡い灰青色。
そこに立っているだけで、余計な動きも表情もないのに、目を逸らせない存在感があった。
「わざわざ来たのは、図面を直すため?」
「お前の図面は、直す価値がある」
リオンは書類袋を差し出す。
「二素材嵌合で光学パスを重ねる発想は珍しい。面白い。ただ、構造の基礎が弱い。ここまでの構想を加工で台無しにするのは、もったいない」
エラは袋を受け取り、喉の奥がきゅっと締まるのを感じた。
前の人生。自分の設計はクレルモン家に奪われ、ヴィアンの名で提出された。審査は『基礎が甘い』『構造支持が不足』と切り捨て、彼女に弁明の場は一度も与えられなかった。
こんなふうに真剣に図面を読んでくれた人も、時間を割いて弱点を埋めてくれた人も――いなかった。
「……ありがとう」
リオンの視線が、エラの肩越しに部屋の中を走る。作業台に広がるスケッチと原石。点いたままのPC画面には、例のトレンド。
その画面で一秒だけ目が止まる。驚きはない。来る前から知っていたと言わんばかりだ。
「提案がある」
不意に、リオンが言った。
「提案?」
「組む」
短い断言。
「宝石のルートと切削技術は俺が出す。お前はデザイン。独立スタジオの形で、どこのブランドにもぶら下がらない。代工もしない。俺たちのものだけを作る」
エラの指が、書類袋を強く掴む。
条件が良すぎる。良すぎて、現実味が薄い。
今の自分は炎上の渦中で、SNSでは追い回され、クレルモン家に業界で塞がれている。サプライヤーですら注文を受けたがらない。
それなのに、この男は深夜に押しかけて図面を直し、さらに組めと言う。
「どうして私?」エラは問う。「今の私、評判は最悪よ」
「俺が買うのは評判じゃない。お前のデザインだ」
リオンは平然と続ける。
「それに、今お前を罵ってる連中は、いずれ列を作ってお前の作品を買う」
エラは、息を忘れた。
その言葉――聞いたことがある。
正確には、前の人生で読んだビジネス誌のインタビュー記事だ。そう語ったのは、グレイ・グループの当主。写真すら出回らない、神秘の財界支配者。
胸が跳ね上がり、脳裏で点が線になる。
リオンは名刺を差し出した。
「改めて名乗る。エラ嬢」
そこに記されていたのは――
グレイ・グループ。
