第8章 アレック兄さん、失礼しました
男の首筋に、すっと赤い筋が滲んだ。
「動くな」
耳元で響いたのは、エラの氷みたいに冷えた声だった。
男が硬直する。「おまえ……!」
「言ったでしょ。動くな」
エラは刃を、さらに数ミリ押し込む。
ずぶり、と食い込みが深くなり、血が皮膚を伝って落ちた。男の顔色が変わる。反応の遅い手下二人へ怒鳴りつけた。
「何ぼさっとしてる! そいつの原稿、置け!」
二人は慌てて、掴んでいたデザイン画を机へ戻す。
「そっちの一枚も」
エラの視線が、もう一人へ流れる。
「は、はいっ……!」
そいつも急いで手を離した。
「よし」
エラは小さく頷くと、淡々と言い切る。
「今から、全員両手を上げて」
三人が顔を見合わせる。刃を突きつけられている男が、真っ先に両手を上げた。首が刃先に触れないよう、異様に慎重な動きだ。
残りの二人も一瞬ためらい、ゆっくりと両手を持ち上げる。
「三歩下がって。壁際に立て」
二人は言われた通り後退し、壁へ背をつけた。
エラはようやく視線を戻し、刃先の先にいる男を見下ろす。
「言いなさい。誰の差し金?」
男が口ごもる。
その瞬間、エラの手元がぐっと締まった。刃が、ほんのわずかに――だが確実に――食い込む。
「言う! 言う!」
男は声を裏返らせる。
「アレック・クレモンだ! あいつが、おまえにちょっと「しつけ」をしろって……ヴィアン嬢をいっつもいじめるから、設計図を全部台無しにして、それから……それから……」
「それから何?」
「右手を潰せって……二度と描けないように、って……!」
エラが鼻で笑う。
「アレックが、直に?」
「そうだ! あいつが直接言った!」
首筋の刃が締まった気がして、男は焦って付け足す。
「今も下の車にいる! 終わったら報告に上がれって!」
エラは一拍、黙った。口元だけが、ゆるく弧を描く。
「――いいわ」
次の瞬間。
エラが足を上げ、男の膝裏へ容赦なく蹴りを叩き込んだ。
「ぐっ……!」
不意を突かれた男の膝が崩れ、前へ倒れ込む。エラは流れるように男の右腕を掴み、逆方向へ捻り上げた。
ガキッ。
「ぎゃあああっ!」
男は悲鳴を上げ、信じられないという顔で自分の腕を見る。折れていた。生身のまま、へし折られていた。
エラは腰のホルスターから黒い拳銃を抜き取り、壁際へ蹴り飛ばす。
ようやく状況を理解した二人が歯を食いしばり、同時に突っ込んできた。
左の男が拳を振り抜き、右の男は刃を握るエラの手首を掴みにかかる。
エラは身をひねって拳をかわし、左肘を叩き込むように相手の肋へ突き刺した。
同時に、右手の刃を返し、峰で相手の手首を打ち据える。
「うぐっ!」
右の男が悲鳴を漏らし、手を引っ込めた。
エラは間髪入れず、胸元へ蹴りを入れる。
ドンッ。
男の身体が宙を飛び、床へ叩きつけられた。しばらく身動きひとつ取れない。
肋をやられた男は胸を抱えて転げ回り、顔面は蒼白。声すら出ない。
――十数秒。
アパートの床には、男が三人転がっていた。
エラは笑みを浮かべ、見下ろす。
「アレックが寄越した人間って、この程度?」
拳も蹴りも、孤児院で叩き込まれたものだ。達人ではない。けれど、身を守るには十分。
前の人生は不意打ちだった。だからアレックに付け込まれ、数で押しつぶされ、病院送りになった。
でも今度は違う。
もう二度と、同じ目には遭わない。
「帰って言いなさい。次に誰かの手を潰したいなら――自分の器を、先に量れって」
震える男は、言葉にならない息を漏らすだけだった。
そのとき。
廊下の向こうから、切迫した足音が駆け上がってきた。
ドンッ!
アパートの扉が、蹴破られる。
エラが振り向くと、入口にアレックが立っていた。顔は驚愕に引きつり、目だけが忙しく室内をなぞる。
インカム越しの音がおかしいと気づき、飛んできたのだろう。だが目の前に広がっていたのは、自分の手駒が全員伸びている光景だった。
血のついた刃を見た瞬間、アレックの喉が鳴る。危険を察し、じり、と後ずさった。
「エラ、おまえ……」
「アレック兄さん、いらっしゃい」
エラが艶やかに笑う。
ぞわり、とアレックの背筋を恐怖が這った。踵を返して逃げようとした、その次の瞬間。
エラが一気に間合いを詰め、髪を掴んで引きずり戻した。
「うわっ、やめろ! 離せ! 警察呼ぶぞ!」
床に叩きつけられたアレックが喚く。
エラは笑ったまま、刃を近づける。
「アレック兄さん。失礼」
……
騒ぎを聞きつけた近隣住民が集まり始めた。
扉は閉まりきっていない。誰かが勇気を振り絞って押し開け、そっと中を覗き込み――次の瞬間、甲高い悲鳴が上がった。
「きゃあっ! 人殺し!」
他の者も覗き込み、床に転がる四人の男を目にする。うち一人はスーツ姿で身なりも良く、場違いなほど「上」の人間に見えた。彼は床に膝をつき、ふくらはぎから血を流している。
刃物を提げた女が、ゆっくり振り返った。
顔じゅう血に濡れている。
エラが微笑む。
「こんばんは」
住民たちは悲鳴を上げて後退し、震える手で通報した。
……
ヘレンが叩き起こされたのは、深夜だった。
使用人が告げる。アレック様が事故に遭い、病院で緊急処置中だと。
ヘレンは着替える暇もなく寝間着のまま飛び出した。ヴィアンもその後に続き、道中ずっとヘレンを宥める。だが目元は赤く染まっていた。
病院に着いたとき、手術室の扉がちょうど開いた。
医師がマスクを外し、重い声で告げる。
「右脚のアキレス腱断裂です。緊急縫合は済みましたが、今後は長期のリハビリが必要になります。回復の程度は経過次第です」
続けてカルテに視線を落とし、言葉を選ぶように。
「それから、腕に軽い骨裂。肋骨にも一か所亀裂があります。全体として……かなり重い」
ヘレンの身体がぐらつく。ヴィアンが慌てて支えた。
「アレックは? アレックに会わせて!」
看護師に案内され、病室へ入る。
ベッドの上のアレックは、鼻も頬も腫れ上がり、青紫に変色していた。もはや人の形をした別物に見える。
「アレック……!」
ヘレンが駆け寄り、手を握りしめる。涙が止まらない。
「誰がやったの? 誰が、うちの子をこんなに……!」
アレックがゆっくりと目を開け、唇を動かした。
「……エラ……」
「何ですって?」
ヘレンの声が裏返る。
「エラ? あの子が、あなたをこんな目に……?」
ヴィアンが両手で口元を覆い、息を呑む。
エラが? どうして――どうしてそんなことができるの。
「……あの子が……あの子が、私の息子に手を……」
言い切る前に、ヘレンの目がふっと裏返った。
身体が後ろへ反り、糸が切れたように倒れ込む。
「お母さま!」
ヴィアンが叫び、受け止めたが、ヘレンは意識を失っていた。
医師と看護師が慌ただしく駆け込み、担架へ乗せ、救急処置室へ運び出していく。
ヴィアンは呆然と立ち尽くし――やがて、はっと我に返った。
今はアレックを落ち着かせるのが先だ。
彼女はベッド脇へ行き、身を屈める。
「アレック兄さん……ちゃんと治して。この件、私は絶対に――あの人を許さない」
アレックは疲れ切った目で一度だけ彼女を見て、また瞼を閉じた。
ヴィアンの心臓が、ひやりと沈む。
――怒ってる? 私のせいだって?
でも、エラが喧嘩に強いなんて、知らなかったのに。
「ごめんなさい、アレック兄さん。全部、私が悪いの。私が愚痴なんか言わなければ……兄さんだって、私のためにお姉ちゃんのところへ行かなかった」
ヴィアンの目に涙が滲み、たちまち頬を濡らした。
その泣き顔に、アレックの胸がざわつく。苛立ちなど吹き飛び、慌てて目を開けた。
「泣くな。おまえのせいじゃない……俺が悪かった」
「違うの! 私のせい!」
ヴィアンは顔を覆ってすすり泣きながら、指の隙間からアレックの表情を盗み見る。
薄い不満が、痛ましさへ変わっていくのを確かめた瞬間、ヴィアンはさらに追い打ちをかけた。
「……兄貴に言う。兄貴に、絶対に兄さんの仇を取ってもらう……!」
そう言ってスマホを取り出し、発信する。
「兄貴、聞いて。エラがアレックを――」
言い終える前に、ひやりと冷たい手が、彼女の手首へ置かれた。
