第1章

「119番消防です。火事ですか、救急ですか?」

 無線から指令室の声がノイズ混じりに響く中、高木さんが救急車のハンドルを切って、また一つ角を曲がった。私は頭上の手すりを掴みながら、もう一方の手ですでに救急バッグへと手を伸ばしていた。

「通報者女性、夫意識呼吸なし、CPA疑い」高木さんの声は短く、事務的だった。プロの声だ。私たちはこれまで何百回とこれを繰り返してきた。

「場所は、青葉台三丁目」

 胃が冷たく沈んだ。

 その住所には覚えがあった。

 五回のお盆の集まり。四回のお正月。そして、義母から私の手作りコロッケを「スーパーの惣菜の味がする」と言われた、あの一回の記念日ディナー。

 青葉台三丁目。そこは、私の義理の実家だった。

「大丈夫か?」高木さんが私をちらりと見た。

「平気です」声は震えなかった。看護師としての訓練の賜物だ。「現着まで?」

「あと二分」

 二分。この先に何が待ち受けていようと、覚悟を決めるための時間はそれだけだ。

 宗一郎さん。私の義父。桐島家の中で唯一、私をただの「拓也の不運な結婚相手」としてではなく、一人の人間として見てくれた人。

 そして美津子さん。私の義母。私が彼女より下であり、彼女の友人たちよりも下であり、彼女の期待よりも遥かに下の存在であることを、五年間かけて徹底的に思い知らせてきた女性。

 救急車は無人の夜道をサイレンを鳴らして疾走した。午前二時。街は眠っている。

 私たちは違った。

 高木さんがブレーキを踏んだ。目の前にその家が威風堂々と構えている――重厚な瓦屋根、手入れの行き届いた庭園、そして「旧家の格式」を物語る佇まい。

 救急車が完全に停止する前に、私は飛び出していた。

 玄関のドアは開け放たれていた。玄関先の敷石に廊下の灯りがやわらかく映っている。中から誰かの叫び声が聞こえた。

 私は走った。

 磨き上げられた無垢材の床。格調高い照明器具。お香と畳の匂いがほのかに漂う。すべてが見覚えのあるもの。すべてが冷たいもの。

 廊下で美津子さんが膝をついていた。着物姿。午前二時だというのに髪は完璧にセットされている。その両手が震えていた。

 その横の床に、宗一郎さんが倒れていた。土気色。動かない。呼吸をしていない。

 その時、美津子さんが顔を上げた。

 私を見た。

 彼女の表情が変わった。ほんの一瞬だけ。それは安堵ではなかった。感謝でもなかった。

 恐怖だった。

「綾香……?」彼女の声が裏返った。「あなたが、どうして――」

 そんなことに構っている時間はなかった。

「下がってください!」

 私は宗一郎さんの横に滑り込み、脈を確認した。かろうじて触れる程度。微弱。今にも消えそうだ。

「倒れてからどのくらい経ってますか?」

「わ、わからないわ……たぶん五分くらい? すぐに電話したの――」

「高木さん! 除細動器!」

 私の両手はすでに宗一郎さんの胸の上にあった。三十回の胸骨圧迫。一分間に百回のテンポで、五センチの深さまで。掌の下で肋骨がしなる感触が伝わってくる。

「綾香、あの人は――」美津子さんの声は甲高く、張り詰めていた。

「処置中です。少し離れていただけますか」

 気道を確保する。人工呼吸を二回。

 反応なし。

「離れてください!」高木さんがAEDのパッドを装着し、「ショックボタンを押します。離れてください」と再度確認した。

 宗一郎さんの体が跳ねた。

 まだ反応はない。

 圧迫再開。腕が焼けつくように熱い。汗が目に入った。

「再度ショックします。離れてください」

 ショック実行。

 今度は――

 モニターから規則的な電子音が響いた。

 弱いが、確実な心拍のリズム。

「戻ったな」高木さんはすでにストレッチャーの準備を始めていた。

 私は宗一郎さんの胸に手を置いたまま、鼓動を監視し続けた。数を数える。その心拍が消えないように祈りながら。

 私たちは彼を持ち上げ、固定し、運び出した。

 美津子さんが裸足のまま玄関先を追いかけてきた。白粉が涙で崩れ、頬を伝っていた。彼女は小さく、今にも壊れそうに見えた。

 ストレッチャーを積み込む際、彼女は私の腕を掴んだ。

「ありがとう」彼女は目を見開いていた。「あなたがいてくれて、本当によかった……お陰様で」

 私は彼女の手を優しく離し、「病院でお待ちください」と告げて救急車に乗り込んだ。

「中央病院へ」私は高木さんに告げた。「急いで」

 ドアが閉まり、サイレンが鳴り始めた。美津子さんの顔が後方へと消えていく。

 車内で、宗一郎さんの目がうっすらと開いた。かろうじて意識がある。彼は焦点を私に合わせようとしていた。

「話さないで」私は酸素マスクの位置を直した。「もう心配いらないから」

 彼の手が動いた。力なく、私の手を求めていた。

 私はその手を握った。指先は冷たく、湿っていた。

 彼は私を引き寄せた。マスクの下で唇が動いている。

 私はマスクをわずかに持ち上げ、耳を寄せた。

「ナナ……」声はささやきにも満たない。「ニー……キュウ……キュウ……」

「え?」

「七。二。九。九」数字を一つ言うたびに力が削がれていく。「頼む……」

「お父さん、何を――」

「約束してくれ」彼の握る力が強くなった。ほんの少しだけ。「約束だ」

「わかりました。約束します」

 彼の手から力が抜け、目が閉じた。

 私はマスクを戻し、バイタルを確認した。安定している。今のところは。

 七、二、九、九。

 どういう意味だ?

 私は彼を見下ろした。実の息子よりもずっと優しく私に接してくれた男性。今日一日どうだったと聞いてくれた人。私の仕事の話に耳を傾けてくれた人。一度たりとも、私をちっぽけな存在だと感じさせなかった人。

 瞼の裏に、美津子さんの顔が浮かんだ。私を見た時の、あの表情。

 安堵ではない。

 恐怖。

 まるで、私が一番会いたくない相手であるかのように。

 まるで、私が何かを台無しにしてしまったかのように。

 救急車のドアが開いた。中央病院だ。眩しいライト。飛び交う声。ストレッチャーへと伸びる無数の手。

「CPA、ダウンタイムはおよそ十分――」

 宗一郎さんが運ばれていくにつれ、言葉が混ざり合って遠のいていく。廊下の奥へ。二重扉の向こうへ。そして見えなくなった。

 私はそこに立ち尽くしていた。救急搬入口で、手はまだ震え、背中のスクラブは汗で張り付いていた。

「いい処置だった」高木さんが私の肩を叩いた。「大丈夫か?」

「ええ」それが本心かどうかはわからなかった。

「身支度を整えてこい。書類仕事は俺がやっておく」

 午前三時の病院は静かだった。職員用トイレに入り、手を洗い、顔に水を浴びせた。

 鏡の中の私は疲れ切っていた。五年分の夜勤の疲れ。そして桐島家の「看護師さん」扱いに耐えてきた五年分の疲れだ。

 スマホが振動した。

 拓也からのメッセージ。「親父のこと聞いた。手伝ってくれてありがとう」

 私はそのメッセージを見つめた。

「大丈夫か?」ではない。

「大変だったな」でもない。

「今どこにいる?」ですらない。

 ただ、「手伝ってくれてありがとう」

 まるで私が家具の移動を手伝ったかのような。彼の洗濯物でも取りに行ってきたかのような言い草。

 自分の父親が、私の目の前で死にかけたというのに。

 私は返信しなかった。

 再びスマホが振動した。

 知らない番号から。「桐島綾香様。弁護士の小林誠司です。宗一郎様より、もしあなたが彼の命を救ったなら、このコードを伝えるようにと承っておりました。7-2-9-9。あなたなら使い道がわかるとのことです」

 私はもう一度読み返した。

 七、二、九、九。

 宗一郎さんがささやいたのと同じ数字。

 もし、あなたが彼の命を救ったなら。

 宗一郎さんは知っていたのだ。どういうわけか、駆けつけるのが私であることを。そして、私が彼を救うことを知っていた。

 そして、そのための準備をしていた。

 私は拓也のメッセージをもう一度見て、それから小林誠司のメッセージを見た。

 何かがおかしい。

 ここしばらく、ずっと何かがおかしかったのだ。

 そして宗一郎さんは、私にその正体を突き止めてほしいと願っている。

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