第1章 新しい恋人
手術を終え、手術室から運び出されるその瞬間まで、桐生冬紀は――「予期せぬ妊娠」と「予期せぬ流産」という急転直下から、まだ抜け出せずにいた。
看護師に病室へ押されながら、入院手続きの確認をされる。
「1703床、桐生冬紀さん。ご家族は?」
桐生冬紀は真っ白な天井を見つめたまま、焦点の合わない目で、声を聞き逃した。
「桐生冬紀さん、ご家族はどちらに?」
点滴ボトルを調整していた別の看護師が、慌てて振り向く。
「私が書きます。救急車で来たとき、身分証とカードを預かってます。『そのまま入院で、そのまま引き落として』って……ご家族は――」
桐生冬紀の唇がわずかに動き、看護師の言葉を継いだ。
「……いません。家族は」
消毒液の匂いが鼻腔に刺さる。彼女はゆっくり身体を丸めた。子どもを失ったという事実が、時間差で骨の奥まで染み込んでくる。息を吸い、吐いた瞬間、予告もなく涙が溢れた。
――もう、いない。
手術は身体に堪える。桐生冬紀は病院で、たったひとり三日間横になった。
四日目。ようやく御堂怜央から電話が入る。
「桐生秘書。何日も無断欠勤して、遊びは満喫したか? 満足したなら『西宮』に来い」
受話器の向こうは、酒を勧める声でざわついていた。ぼんやりと、幼い女の声も混じる。桐生冬紀は唇を動かし、病院にいると言いかけて――
「桐生秘書?」
御堂怜央が同じ呼び名を繰り返した。怒っている。
桐生冬紀は飲み込んだ。退院手続きすら間に合わないまま、慌ただしくタクシーを拾って会員制クラブの西宮へ向かった。化粧も車内で最低限だけ。
降車すると、口紅を塗りながら中へ入る。受付のスタッフに尋ねた。
「青雲の御堂社長は、どの個室?」
スタッフは顔を上げた瞬間、息を呑んだ。三秒固まってから、慌てて答える。
「001です。ご案内します」
桐生冬紀は小さく頷き、001の前へ。礼儀として二度ノックし、そのまま扉を押し開けた。
途端に、濃厚な酒の匂いがぶわっと襲い、胃がきりきりと反射的にえずく。
誰がいるのか目を凝らす前に、男の冷たく怠い声が落ちた。
「桐生秘書が来た。彼女に飲ませろ。社会に出たばかりの子を困らせるな」
客がどっと笑う。
「桐生秘書、ほんと従順だな。呼べば来る。ほら見ろよ、御堂社長は新しい子が可愛くて仕方ないんだ。俺らに潰されるのが嫌で、おまえを出してきた」
桐生冬紀は一周見回して状況を把握し、視線を御堂怜央の左隣へ落とした。
見知らぬ女の子。だが、向こうは桐生冬紀を知っているらしい。
「冬紀さん……ごめんなさい、私……」
言い終える前に、御堂怜央が遮った。
「謝る必要はない。彼女が無断欠勤しなければ、今日の席は本来、彼女が来るべきだった」
誰の耳にも分かる。庇い方が露骨だ。
――御堂怜央が、誰かを庇う?
桐生冬紀はその子を、もう一度だけ見た。
二十三くらい。ポニーテール。きちんとしたワンピース。欲望の匂いが漂うこの場所で、迷い込んだ白兎みたいに頼りなく、妙に庇護欲を煽る。
桐生冬紀は唇を軽く噛み、笑顔を貼りつけて歩み寄った。
「工藤社長、また飲んでるんですか」
青雲グループの専属秘書として、桐生冬紀は場を回すのが上手い。三言二言で空気をひっくり返し、結局赤ワインを数杯は飲んだものの、最初の「潰れるまで帰さない」勢いはかなり和らいだ。
ただし――御堂怜央は最初から最後まで、彼女を庇う言葉を一つも口にしなかった。
騒がしい笑い声の合間、桐生冬紀の耳が拾ったのは、男の磁力を帯びた低い声。女の子にだけ、ひどく優しい。
「眠い? あとで先に送ってやる」
そんな声を、桐生冬紀は三年付き従って、一度も聞いたことがなかった。
