第4章 古い恋人

桐生冬紀が問い返す。

「御堂社長は、何のご説明をお求めですか?」

「なぜ解雇した」

桐生冬紀は淡々と答えた。

「華名の契約書を作成したのは彼女です。内容に誤りがありました。幸い先方とは関係が良好で、大事にはなりませんでしたが……社内規定では、新入社員が重大なミスで会社の利益を損ねた場合、解雇が可能です。あわせて追及権は留保されます」

白井柚葉はそれを聞いた瞬間、さっと血の気が引いた。怯えと緊張で声が震える。

「わ、私……不注意で……すみません……」

御堂怜央は彼女を一瞥した。あれは叱責ではない。宥める目だ。

それから桐生冬紀へ、短く言う。

「書類」

桐生冬紀が差し出すと、御堂怜央は末尾だけを流し見て、机へ放り投げた。

「この日付。おまえが無断欠勤していた日だ。おまえが勝手に休まなければ、この契約は白井柚葉みたいな新人に回らない」

桐生冬紀は、ばかばかしさに息が詰まった。

「……つまり、責任は私に?」

「おまえは専属秘書だ。秘書室を取りまとめてる。部下がミスしたら、おまえの責任だろう」

露骨な肩入れ。隠す気もない。

桐生冬紀は歯を食いしばり、感情を押し殺して言った。

「彼女が入社した時期、私は休暇で不在でした。それに、できないなら他に聞けばいい。あるいは手を付けずに置けばいい。自分から名乗り出て、独断でやって、間違えたなら責任を取るべきです。そもそも秘書室に入る人材は、相応の専攻と実績が必要です。芸術系の学生が座る席ではありません」

御堂怜央が問う。

「俺が、どうしても残すと言ったら?」

桐生冬紀は唇を噛んだ。

「秘書室は定員です。助理は不要。残すなら、別の部署へ配置してください」

御堂怜央は彼女を見つめた。桐生冬紀は口を固く結び、譲らない。どこか、三年前の面影。

彼の口元が嘲るように歪む。

「定員なら――おまえが席を譲れ」

桐生冬紀は凍りついた。

……何を言っている?

意味を理解した瞬間、背筋が氷水に沈む。

白井柚葉を解雇すれば不機嫌になるのは分かっていた。だが、ここまでとは思わなかった。

桐生冬紀は見誤ったのだ。御堂怜央が白井柚葉に抱く興味の深さを。

そして――自分の価値を、買いかぶっていた。

白井柚葉が慌てて一歩出る。

「御堂社長、私……」

御堂怜央は手を上げて黙らせ、桐生冬紀へ一枚の書類を投げた。

「F市の分公司案件。おまえが追え。終わるまで本部に戻るな」

……

桐生冬紀は社長室を出ると、秘書室へ戻り、無言で荷物をまとめ始めた。

他の秘書二人が顔を見合わせる。

「冬紀、どこ行くの?」

桐生冬紀は虚ろに答えた。

「F市の案件。御堂社長が、私が担当しろって」

二人とも言葉を失った。社長秘書が外へ出される前例などない。しかも桐生冬紀は専属秘書だ。

子会社の待遇が本部に及ぶはずもない。いったん出たら、戻れる保証はない。

白井柚葉が箱を抱えて入ってきた。桐生冬紀の机にそっと置き、怯えたように口を開く。

「冬紀さん……わ、私、手伝います……」

桐生冬紀は彼女を見た。

「御堂社長が、この席はこれからあなたのものだって?」

「……はい。ここに座れば、何かあっても御堂社長が見えるからって……」

桐生冬紀の口元がひくりと引きつる。

そうだ。この席は社長室の正面。扉が開いていれば、執務中の御堂怜央が見える。

かつて桐生冬紀も、仕事の合間にこっそり顔を上げ、彼を盗み見ていた。

今は――御堂怜央が堂々と白井柚葉を眺められる席。

今日みたいに「白井柚葉がいじめられる」ことを防ぐために?

桐生冬紀は息を吐いた。流産の痛みが、また全身を舐めるように戻ってくる。

白井柚葉は卓上カレンダーを箱に入れながら、囁くように言った。

「私、頑張って勉強して、ちゃんと仕事します。もうミスしません。冬紀さん、安心してください」

桐生冬紀には、安心も不安もなかった。

新しい女ができたら、古い女など誰が気にする?

まして彼女は「古い恋人」ですらない。

御堂怜央が飽きた道具――それだけだ。

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