第1章
「朝比奈澪! おまえ、どれだけ自分勝手なんだ!」
「神宮寺玲央に嫁げるんだぞ。光栄だと思え! 断る資格なんてどこにある!」
朝比奈邸。
朝比奈隆之は手元の茶碗と箸を乱暴に卓へ叩きつけ、向かいで俯いたまま一言も返さない少女を低い声で怒鳴りつけた。
朝比奈家はS市では三流の名門。かつてはそれなりに栄えた時期もあったが、いまや見る影もなく、破産寸前まで追い詰められている。
そんな折、神宮寺宗一郎が病重い孫――神宮寺玲央の縁談を進めているらしい、という話が耳に入った。
朝比奈隆之の胸に、瞬時に欲が灯る。
神宮寺家は全国一の財閥一門。
姻戚にさえなれれば、朝比奈家の再起など目前だ。
広いダイニングに、息をする音すらない。
朝比奈澪は箸を置き、澄んだ瞳で真っすぐ隆之を見た。
心の奥の貪欲と妄執を、まるで透かすように。
「どうして私なの。瑠璃じゃなくて?」
その一言で、食卓の空気が一瞬固まった。
朝比奈隆之の顔に、みっともない陰りが走る。
「お、おまえの妹は身体が弱いんだ。そんな子に病人の嫁なんて務まるか!」
横から朝比奈千代がすぐに口を挟む。
「瑠璃は神崎家と婚約してるの。いま家を助けられるのは、澪、あなただけよ」
「お姉ちゃん、ごめんなさい……全部わたしのせい。責めるならわたしを責めて。パパもママも、わたしのために……」
朝比奈瑠璃は瞳に涙を溜め、弱々しく俯いた。
その姿に隆之と千代はたちまち胸を痛める。
澪は苦く笑った。
長い睫毛が震え、瞼に影を落とす。白く精緻な頬は、作り物めいて美しい。
瑠璃はその顔を見つめながら、腹の底の嫉妬が煮え立つのを感じていた。
あんな汚い田舎で何年も暮らしていたくせに、どうして私より肌が白くて、綺麗なの。
遠目には、ショーウィンドウの完璧なドール。欠点なんて見当たらない。
けれど、ふと何かを思い出し、瑠璃の眉間がほどけた。
綺麗でも何になる。数日もすれば神宮寺家へ“沖喜”に行くのだ。
S市で知らない者はいない。
神宮寺玲央は重病で、命の灯が風前の灯だと。
しかも性格は陰険で冷淡、気性も荒い。
逆らった者にまともな末路はない――そんな噂まである。
澪が嫁いだら、どう死ぬかさえ分からない。
そう思うと、瑠璃の胸は妙に軽くなった。
「お姉ちゃん、うち……もうすぐ倒産なの。神宮寺家と縁組しないと助からないの」
澪の目に、薄い嘲りが宿る。
「だから私が犠牲になって、あなたたちを喜ばせろって?」
これが、十九年も夢見ていた“本当の親”なのか。
貪欲で、身勝手で。実の娘の一生を利益と引き換えにする。
澪は一歳のときに迷子になり、見つかったのはつい一か月前。
この十九年、何度も想像した。自分の親は、きっと愛してくれるのだろう、と。
だが現実は違った。
彼女がいなくなって間もなく、両親は施設から一人の少女を引き取っていた。朝比奈瑠璃――それが彼女だった。
十九年で、瑠璃は澪の居場所をすべて奪った。
両親も、兄も、婚約者も。例外はない。
千代が説得の言葉を探した、その時。
澪の澄んだ声が、静かに落ちた。
「分かった。結婚する」
「……本当か?」
隆之の瞳がぱっと明るくなり、怒気は霧散する。澪を見る目に、露骨な満足が混じった。
「そうこなくちゃな。神宮寺家はおまえを粗末にはしない」
千代も安堵の顔を浮かべる。
瑠璃は口元をわずかに吊り上げ、隠しもしない愉悦を見せた。
澪はその表情を見て、胸の奥で最後の幻想が粉々に崩れるのを感じた。
酸っぱく疼くような感情が込み上げる。こんなの、初めてだ。
息を深く吸い、無理やり押し殺す。
「でも、まだ終わってない。神宮寺家に嫁ぐのはいい。その代わり、条件がある」
隆之の笑みが薄れる。
「調子に乗るな。神宮寺家に入れるだけでも福だぞ」
田舎育ちの分際で――そんな蔑みが目に浮いている。
瑠璃とは天と地だ、とでも言いたげに。
澪は心の中で冷笑した。
重病で長くない男に嫁ぎ、すぐ未亡人になるかもしれない。それを“福”と言う父。どれほど滑稽だろう。
隆之が眉を寄せる。
「条件ってのは何だ」
千代と瑠璃も不快そうに睨む。
澪は見ないふりをして、淡々と言った。
「神宮寺家から融資が入ったら、私は朝比奈家と縁を切る。これから先、お互い一切関わらない」
「――っ!」
静まり返った邸宅に、突然、ガラスが砕ける甲高い音が響いた。
隆之が激昂し、澪の頬を平手で殴り飛ばす。
「もう一回言ってみろ! 恩知らずが! 産むんじゃなかった!」
縁を切る?
それを娘が口にするなど、許せるはずがない。
千代も怒鳴る。
「澪! お父さんに謝りなさい!」
澪は小柄だ。力いっぱいの一撃で床へ転がった。
頬が焼けるように痛み、喉奥から血が込み上げ、唇の端に滲む。
手で拭えば、掌が赤く染まった。
澪は嗤った。
「神宮寺家へ行くのは、産んだ恩の返しだと思う」
「それで終わり。これから先、私は朝比奈家と無関係」
「馬鹿な真似を!」
隆之は目を剥き、憎悪を燃やして睨みつける。
「おまえは朝比奈家の人間だ! 家を救うのがおまえの責任だろう! 食わせてもらって、着せてもらって、その全部が朝比奈家の金だ!」
澪は立ち上がり、皮肉たっぷりに返した。
「私の服は師匠が買ってくれた。使ってる物も山から持ってきた。与えられた部屋は瑠璃の物置みたいな雑物室……産んだのはあなたたちでも、育てたのはあなたたちじゃない」
「私は最初から、何も借りてない」
豪奢なシャンデリア、高価なコレクション。
ここは“家”のはずなのに、どこにも温度がない。
隆之はその強情さに、怒りが逆流する。
「いいだろう! 望み通りにしてやる! 後悔するなよ!」
神宮寺家のような名門は家柄を重んじる。
後ろ盾のない嫁が生き残れるはずがない――そう言外に嘲るように。
隆之はスマホを取り出し、弁護士へ電話をかけた。
ほどなく、絶縁の書面が持ち込まれた。
そこには、澪が自ら朝比奈家との一切の関係を断ち、朝比奈家財産の相続権を放棄する旨が明記されていた。
