第2章

朝比奈澪は断絶届にざっと目を走らせると、迷いなく自分の名を記した。

背後では、朝比奈隆之のヒステリックな罵声と、朝比奈千代の「情けない子」という叱責が飛び交っている。

澪は鼻で笑い、スーツケースを引いて振り返りもせずに出ていった。

深夜。街路は墨を流したように暗い。

ぼんやりした街灯が、路肩の影をだらりと伸ばす。淡い光が彼女の輪郭だけを縁取り、薄い光輪をまとわせた。

陶器みたいに白い頬に、真っ赤な手形がくっきり残っている。痛々しいはずなのに、胸の奥は不思議なくらい軽かった。

この一か月、朝比奈家で受け取ったのは温もりじゃない。見下しと嘲笑と、露骨な嫌悪だけ。

そんな家なら――要らない。

そのとき、黒いマイバッハがゆっくりと彼女の前で止まった。

白髪の男が降りてくる。年は重ねているのに背筋はしゃんとしていて、目の光も鋭い。

「朝比奈さん。こんな夜更けに、お一人でどうされたんですか」

澪がぱちりと瞬きをして相手を見極めようとすると、男は穏やかに笑って名乗った。

「神宮寺家の執事です。白石宗一と申します」

最近、神宮寺宗一郎は玲央様の結婚相手を探して、S市中の適齢女性の素性を洗いざらい調べ上げた。その中に、朝比奈澪もいた。

朝比奈家と神宮寺家は口約束でまとまっている。見つかったばかりの娘を“沖喜”の嫁として差し出す代わりに、神宮寺家が朝比奈家を破産の淵から救う――。

つまり目の前の少女は、玲央様の未来の妻。

そう思うと、白石の眼差しには自然と慈しみが滲んだ。

彼は澪の脇にあるスーツケースへ視線を落とし、声を低める。

「朝比奈さん、そのお荷物……どちらへ?」

澪の目元はまだ赤い。頬の手形と相まって、儚いほど痛々しい。

彼女は手を上げ、背後の朝比奈家の方角を曖昧に指した。

「……家出、しました」

あそこは、最初から自分の家じゃなかったのかもしれない。

朝比奈瑠璃の家であって、私のじゃない。

白石は察したように小さく頷いた。

「朝比奈さん、こんな時間にお一人は――」

言い終える前に、反対側の窓がすっと降りた。

覗いたのは、息を呑むほど整った顔。

精緻な造形に、細長い鳳眼。瞳の奥には薄い水膜がかかり、黒さが曖昧になる。玉のように白い肌は病的な青白さを帯び、それがかえって儚い美を引き立てていた。

――人を惑わす妖。

そんな言葉が、ふっと脳裏をよぎる。

澪はその顔を見た瞬間、心臓がどくん、と跳ねた。家に利用された悔しさなんて、霧散する。

「乗れ」

車内から響いた声は低く艶がある。けれど温度はなく、かすかな弱さが混じっていた。

澪の目がきらりと輝く。

声まで良い……!

彼女はスーツケースを放り出し、ぱたぱたと窓へ駆け寄った。瞬きもせず男の顔を見つめて言う。

「あなた、私の旦那さま?」

神宮寺姓。病弱そうで、なのに誰もが見惚れる器。

条件に当てはまるのは一人しかいない。

もし未来の夫がこんな顔なら……悪くない、どころか。

筋金入りの面食いである澪は、神宮寺玲央の顔を凝視したまま感動で口元が緩み、よだれを垂らしかけた。

「げほっ……げほげほっ!」

白石は顎が外れそうになり、車内の男まで咳き込んだ。紙のように白い頬が一瞬で不自然な紅に染まる。

玲央は眉をひそめ、冷たい視線を飛ばす。

「何を言ってる」

旦那? まだ娶ると決めたわけじゃない。

澪は「え」と間の抜けた声を漏らし、目に影が落ちた。

「違うの?」

――やっぱり朝比奈家はろくでもない。

もし神宮寺玲央が本当にこんなに綺麗なら、瑠璃が手放すはずがない。

白石は笑いを堪えながら、慌てて取り繕う。

「朝比奈さん、間違っていません。この方が神宮寺怜央。あなたの未来の旦那さまです」

澪の瞳に光が戻った。

玲央は耳の辺りを赤くし、白石を睨む。

「余計なことを」

視線が澪へ移り、赤く腫れた手形で止まる。わずかに、目が細くなった。

「家と揉めたか」

白い指先が窓枠をとん、とん、と軽く叩く。声音は淡々として、どこか投げやり。

澪はあっさり言った。

「絶縁した!」

玲央「……」

白石「……」

この子はどうして、絶縁を「今日の昼に何食べた」みたいに言えるんだ。しかもどこか誇らしげに。

澪は片頬に手を当て、黒い杏眼をくるくるさせた。悲しみの色は欠片もない。

そして白い指で玲央の腕をつん、と突く。

「旦那さま、奥さん、行くところなくなっちゃった」

だから拾って、という顔。

捨てられた野良猫みたいに、まっすぐ甘えてくる。

玲央は滅多に心が揺れない。なのにその澄んだ目を見た瞬間、胸の奥を何かが小さく叩いた。

気づけば、彼はドアを開けていた。

澪は大喜びで玲央の隣へ滑り込み、ぱっと笑った。

「旦那さま、優しい!」

その無垢な喜びを、玲央はいつぶりに見ただろう。

記憶のどこかにも、こんな瞳があった。澄んで、すぐに涙を溜める目。

顔は思い出せない。ただ、小さな髪団子を二つ結っていて、やたら可愛かったことだけは覚えている。

玲央が考え込んだ、その瞬間。

腕がずしりと重くなる。

振り向けば、小さな身体が彼の腕に絡みつき、すり、と甘えるように頬を寄せていた。依存そのものの仕草。

前席の白石はバックミラー越しに見て、背筋が凍る。

神宮寺家の人間なら誰でも知っている。玲央様は他人に触れられるのを何より嫌う。特に女。

――どうか勢いで、未来の奥さまを絞め殺しませんように。

だが、恐れていた事態は起きなかった。

玲央は澪を一瞥しただけで、冷淡に言う。

「……離せ」

「やだやだ!」

澪は鼻の奥がつんとして、目に一気に涙が溜まった。うるうるした目で見上げ、しょんぼり言う。

「旦那さま、私のこと嫌い?」

玲央のこめかみに青筋が浮く。

投げ捨てたい衝動を、必死で飲み込んだ。

――今日は出かける前に、厄日を調べるべきだった。

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